第64段階:風の向こうの人
正体不明の青年が魔導宮の結界をすり抜け、フェイへ接触したあの日から数日が経過していた。
ルシウスは前回の夢への不可解な干渉以降、フェイの周囲へ何重もの精神防御結界を追加構築していた。彼女の私室はもちろん、頻繁に訪れる花園、身に着ける衣服、さらには常に寄り添うノアにまで強力な保護術式を施し、カシアンも魔導宮全体の結界構造を根本から見直している。
世界連合軍の総攻撃すら退けた世界最高峰の魔導技術が、たった一人の存在を阻むためだけに注ぎ込まれていた。
それでも、あの青年の痕跡は一切見つからなかった。
侵入を示す魔力反応もない。結界が破られた形跡もない。
高度な術式も、潜伏する呪いも、何一つ検出されない。
ルシウスは相手がどのような手段を用いてフェイの精神領域へ干渉したのか理解できないまま、ただ見えない脅威に対する警戒だけを強め続けていた。
一方のフェイは、以前と変わらない穏やかな日常を送っていた。
しかし、本を読んでいる時や花壇へ水をやっている時、時折ふと、あの夢で見た森の情景を思い出すようになっていた。
視界を埋め尽くすような巨大な森。
肌を撫でる優しい風。
見たこともない美しい花々。
そして、どこか遠くから聞こえていた不思議な音楽。
自分がどうしてあれほどまでにあの風景を懐かしいと感じたのか、フェイ自身にも分からない。
けれど、思い出すたびに胸の奥がじんわりと温かくなり、どうしようもなく惹きつけられるような感覚だけが残っていた。
ある日の午後
フェイはいつものように花園を歩いていた。
春の日差しが降り注ぐ中、ふと、一羽の見慣れない小鳥が空から舞い降りてきた。
透き通るような瑠璃色の羽を持った、非常に美しい鳥だった。
小鳥はまったく警戒する様子もなく、フェイのすぐ近くの枝へふわりと止まる。
足元を歩いていた黒猫のノアが、ピクリと耳を動かして小鳥を睨みつけた。
しかし、ノアの鋭い感覚をもってしても、その鳥からは何の魔力も、僅かな敵意すらも感じ取ることができなかった。
フェイがゆっくりと手を伸ばすと、小鳥は逃げることなく、その細い指先へちょこんと止まった。
すると突然、どこからともなく聞き覚えのある旋律が風に乗って聞こえてきた。
「……この音」
フェイが小さく呟く。
それは間違いなく、あの夢の森で遠くから聞こえていた優しい音楽だった。
次の瞬間、小鳥はフェイの指先から羽ばたき、花園の奥へと飛んでいく。
フェイは思わず、その小さな背中を追いかけて駆け出した。
しかし、数歩進んだところでハッとして立ち止まる。
『あれに近付くな。呼ばれても絶対に応えるんじゃない』
ルシウスの真剣で厳しい声が、脳裏に蘇ったからだ。
怖い。
ルシウスは危ないと言ったし、自分自身も初めてあの青年を見た時は本能的にひどく怯えていたはずだ。
それなのに、なぜ自分はこれほどまでに知りたいと思ってしまうのか。
あの青年を見ると胸の奥に湧き上がる、説明のつかない懐かしさの正体を。
フェイは小鳥が飛んでいった方向を見つめながら、ぎゅっと両手を握りしめて葛藤した。
それでも、湧き上がる好奇心と、自分の内側にある何かが共鳴するような感覚をどうしても抑えきれなかった。
魔導宮の敷地からは絶対に出ない。
そう自分へ言い聞かせながら、フェイは再び小鳥の後を追って歩き出した。
小鳥を追って辿り着いたのは、巨大な生命の樹の根元が見える、ひどく静かな場所だった。
小鳥の姿はどこにもない。
フェイが周囲を見回していると、ふわりと、とても柔らかな風が吹き抜けた。
その風に乗って、聞き覚えのある甘い声だけがフェイの耳元へ届く。
『また会ったね』
フェイは驚いて周囲を見回した。
「どこ?」
返事はない。
代わりに、柔らかな風がフェイの白金の髪を優しく揺らした。
青年自身はどこにも姿を見せていない。
フェイは風の吹いてくる方向へ向かって尋ねた。
「あなたなの?」
風が一度だけ、肯定するように柔らかくフェイの頬を撫でた。
「どうして姿を見せないの?」
フェイが問いかけると、風の中から少し楽しそうな声が響いた。
『だって、きみの王様に怒られちゃうから』
その声には悪意も、敵意も感じられなかった。
むしろ、あの厳格で恐ろしい魔導王であるルシウスの過保護ぶりを、少し面白がっているかのような軽やかさがあった。
「ルシは、あなたは危ないって言ってた」
フェイが少しだけ身構えながら言うと、風の音がふっと止み、短い沈黙が下りた。
やがて、青年は穏やかな声で答えた。
『うん。正しいよ』
てっきり否定されると思っていたフェイは、目を丸くして虚空を見つめた。
青年は自分が安全だとは決して主張しない。
「僕は悪くない」「僕を信じて」というような、フェイを自分の側へ引き寄せるための言葉を口にすることもなかった。
『知らないものを警戒するのは、正しいことだから』
フェイの警戒心を肯定するその言葉には、不思議な優しさと、人間の善悪とはまったく違う場所から物事を見ているような底知れなさが、奇妙に同居していた。
「じゃあ、あなたは悪い人なの?」
フェイの素直な問いかけに、青年は少し考えてから、おかしそうにくすくすと笑った。
『どうだろうね。いい人って言われたことは、あんまりないかな』
「じゃあ悪い人?」
『それも、人によるんじゃない?』
青年はのらりくらりと躱し、決して明確な答えを与えようとはしない。
フェイは少しむくれながら、以前からずっと気になっていたことを尋ねた。
「どうして、私の夢にいたの?」
風がカサリと生命の樹の葉を揺らす。
少しの間を置いて、青年が答える。
『きみが、思い出しかけているから』
「何を?」
沈黙。
再び柔らかな風が吹き、青年の声がそっと囁く。
『まだ早いよ』
はぐらかされてばかりで、フェイは少し不満そうに唇を尖らせた。
「いつも、何も教えてくれない」
フェイの拗ねたような言葉に、青年は小さく、ひどく優しく笑った。
『だって、僕が全部教えたら、それは僕の答えになっちゃうでしょう?』
少しだけ間を置く。
『きみには、自分で見て、自分で決めてほしいんだ』
その言葉が落ちた直後、フェイの周囲を包む風が突然強く吹き荒れた。
フェイが思わず目を閉じ、再び開いた時。
そこに広がっていた景色は、もう魔導宮の花園ではなかった。
果てしなく続く瑞々しい緑。
生命の樹よりもさらに巨大な木々が鬱蒼と茂る森。
どこまでも澄み切った清らかな川。
空には、フェイが見たこともない美しい生物たちが悠然と飛翔している。
遠くには山のように巨大な建造物がそびえ立ち、そこには人間だけではなく、フェイの知らない様々な種族たちが当たり前のように息づいていた。
そして空の遥か彼方、天の頂には、世界そのものを見下ろしているかのような巨大な何かが存在していた。
ほんの数秒
風が止むと同時に、視界は現在の花園へと引き戻された。
フェイはその場に立ち尽くし、呆然と目の前の空間を見つめていた。
「今の……なに?」
青年は、その問いには答えなかった。
ただ、優しく問いかける。
『懐かしかった?』
フェイは言葉を失った。
あの圧倒的な景色を前にして、自分が感じたものは恐怖ではなかった。
やはり、どうしようもなく懐かしかった。
「……うん」
フェイが素直に頷くと、風の向こうから聞こえる青年の声が、ほんの少しだけ嬉しそうに響いた。
『そっか』
残されたのは、それだけだった。
同じ頃
執務室で書類に目を通していたルシウスが、突然顔を上げた。
結界を監視する魔導盤は、すべて正常を示している。魔力反応もない。侵入者の痕跡もない。
それなのに、ほんの一瞬だけ。
魔導宮の敷地内にいるはずのフェイの存在を、ルシウスが認識できなくなった。
消えたわけではない。
魔力が失われたわけでもない。
ただ、自分の知覚からフェイだけが切り離されたかのように、その居場所を捉えることができなくなったのだ。
ルシウスは即座に立ち上がり、残された僅かな魔力の気配を辿って花園へ向かった。
到着すると、フェイは一人で生命の樹の近くに立っていた。
青年の姿はどこにもない。
彼女を導いた瑠璃色の小鳥も、すでに消え去っていた。
「フェイ」
ルシウスが鋭く呼ぶと、フェイはハッとして振り返った。
ルシウスはすぐさま彼女の元へ歩み寄り、精神状態と魔力回路を確認する。しかし、どこにも異常はない。
「何があった」
切迫した問いに、フェイは少しだけ迷った後、正直に答えた。
「あのお兄さんと、お話した」
ルシウスの表情が、一瞬で険しくなる。
「姿を見たのか」
「ううん。声だけ」
その答えが、ルシウスの焦燥をさらに強くした。
姿もない。魔力の痕跡もない。精神干渉の術式も構築されていない。
それなのに、強固な結界の内側で会話だけが成立している。
青年の干渉方法は、ルシウスが修めてきた既存の魔導体系の理から完全に外れていた。
どう防げばいいのか、その方法すら組み立てられない。
ルシウスはフェイに異常がないことをもう一度確かめると、目を伏せたまま僅かに奥歯を噛み締めた。
夜。
フェイは自室の窓辺に寄りかかり、暗い外の景色をぼんやりと眺めていた。
傍らの窓枠には、ノアが香箱を組んで静かに寄り添っている。
フェイの頭の中には、昼間にほんの数秒だけ見た、あの圧倒的で美しい景色のことがずっと残っていた。
「ねえ、ノア」
フェイが夜空を見つめながら話しかける。
「なんでしょう」
「あのお兄さん、やっぱり不思議」
ノアは黄金の瞳を細め、静かに、しかしはっきりと告げた。
「危険です。あれは、我々の理解が及ぶ存在ではありません」
「うん。分かってる」
フェイはノアの忠告を素直に受け入れながらも、少しだけ間を置いて、自分の胸の奥にある正直な気持ちを言葉にした。
「でも、知りたいの。あの人が誰なのか。どうして私を知ってるみたいに話すのか」
窓の外へ視線を向ける。
「どうして、あの人の見せるものが、あんなに懐かしいのか」
ノアは答えなかった。
かつて瀕死だった自分へ命の力を分け与えてくれたフェイとの間には、今も特別な繋がりがある。
だからこそフェイの魔力や感情の僅かな変化には敏感だったが、彼女が失っている過去までは、ノアにも知ることができない。
フェイは再び窓の外、広大な夜の闇を見つめた。
ルシウスがどれほど警戒しても、ノアがどれほど危険だと告げても。
フェイの心に芽生えた「知りたい」という気持ちは、もう消えそうになかった。
窓ガラスへそっと指先を触れ、誰に聞かせるでもなく小さく呟く。
「……また会えるかな」
静かな夜の風が、フェイの呟きを夜空の彼方へと運んでいった。




