第63段階:夢の境界
魔導宮を包む夜は深く、しんと静まり返っていた。
フェイの私室では、暖炉の火が微かにパチパチと音を立て、部屋全体を柔らかな琥珀色に染め上げている。
大きな天蓋付きのベッドで、フェイは穏やかな寝息を立てていた。
その枕元では、黒猫のノアが丸くなって静かに目を閉じている。
そして、ベッドのすぐ傍らに置かれた一人掛けのソファには、ルシウスが腰を下ろしていた。
手元の魔導書に視線を落としてはいるものの、彼がページをめくることはない。
ルシウスの神経は、フェイの周囲を取り巻く微細な魔力の揺らぎや、空間の歪み一つを見逃さないよう、極限まで研ぎ澄まされていた。
昼間、厳重な結界をすり抜けて中庭へ現れたあの正体不明の青年を、ルシウスはこれまでにないほど強く警戒していた。
目的は一切不明。
それでも、青年がフェイの髪と頬に触れ、何らかの干渉を行った可能性だけは否定できない。
得体の知れない存在が直接接触した直後である以上、フェイを一人きりにして眠らせるつもりなどなかった。
フェイは温かい毛布に包まれながら、深い眠りの底へと沈んでいく。
やがて彼女の意識は、見たこともないはずの風景の中へふわりと降り立った。
そこは、どこまでも続く深い森だった。
巨木が天を突くようにそびえ立ち、枝葉の隙間から柔らかな木漏れ日が差し込んでいる。
足元には、フェイがこれまでの人生で一度も見たことのないような、淡く美しい色彩の花々が咲き乱れていた。
肌を撫でる穏やかな風は心地よく、どこか遠くから、澄んだ水音に混じって不思議な音楽が聞こえてくる。
弦楽器を爪弾くような、優しく甘い旋律だった。
フェイは夢の中で足を止め、その美しい森をぐるりと見渡した。
「……ここ、知ってる」
自分でも、なぜそんな言葉が出たのか分からなかった。
フェイが外の世界で知っている森といえば、すべてが枯れ果て、灰に覆われた死の森だけだ。
こんなにも命に溢れた眩しい場所など、訪れた記憶があるはずもない。
それなのに、なぜか胸の奥が締め付けられるほどに懐かしく、不思議な安らぎに満たされていた。
音楽の鳴る方へ導かれるように歩き出すと、遠くの木々の間に、一人の後ろ姿が見えた。
数日前、魔導宮の暗い回廊に立っていた青年。
そして今日、花園で自分の髪へ一輪の赤い薔薇を添えた、あの青年だった。
フェイははっとして立ち止まり、身構えた。
しかし、不思議なことに、現実で彼と対峙した時に感じたような本能的な恐怖は湧き上がってこない。
青年はフェイへ近付いてくる様子もなく、ただ少し離れた場所を、彼女に背を向けてゆっくりと歩いている。
フェイは躊躇いながらも、その背中を追うように小走りで森を進んだ。
だが、どれだけ足を速めても、青年との間にある一定の距離はまったく縮まらない。
まるで、二人の間に流れる途方もない時間の隔たりそのもののように。
「待って!」
フェイがたまらず声を上げると、青年は立ち止まった。
しかし、振り返らない。
「あなた、誰なの?」
フェイの問いかけが、静かな森に吸い込まれていく。
少しの沈黙が下りた。
青年は言葉で答えることはしなかったが、代わりに、どこかひどく懐かしそうに、心底愛おしいものを見つめるように笑った気配だけが、風に乗ってフェイの元へと届いた。
その瞬間、夢の風景が足元から少しずつ崩れ始めた。
森の木々が光の粒子となって溶け、遠くで鳴っていた音楽が次第に遠ざかっていく。フェイの意識が現実へと引き戻されようとする直前、青年が初めてほんの少しだけ振り返った。
完全には見えない横顔。
そこには、花園で見せたあの無邪気で底知れない笑顔ではなく、どこかひどく寂しそうで、それでも再会を喜ぶような嬉しそうな表情が浮かんでいた。
フェイがふっと息を吸い込み、ゆっくりと目を開けると、そこはいつもの自室の天蓋の下だった。
「どうした」
隣から低く落ち着いた声が聞こえる。
身を起こしたフェイが視線を向けると、ルシウスが魔導書を閉じ、紫水晶の瞳で静かにこちらを見つめていた。
フェイはまだ夢の余韻に浸りながら、自分の胸元で小さく両手を握りしめた。
「……また、あのお兄さんがいたの」
その一言で、ルシウスの表情が変わった。
即座に立ち上がり、フェイの額へそっと手を当てて全身の魔力状態を走査すると、同時に部屋の内部からフェイの精神領域を守る結界に至るまで、あらゆる術式を徹底的に調べ上げていく。
しかし、何も見つからない。
外部から夢へ干渉された痕跡も、残留魔力も、精神へ作用する呪術の形跡すら残されていなかった。
魔導の頂点に立ち、かつて神々の術式すら解析してきたルシウスをもってしても、あの青年がどうやってフェイの夢にまで現れたのか、まったく分からない。
ルシウスの端正な顔に、険しい影が落ちた。
「フェイ、よく聞け」
ルシウスはフェイの肩へ手を置き、真っ直ぐにその海のような青い瞳を見つめた。
「あれに近付くな。夢の中で姿を見ても追いかけるな。呼ばれても、絶対に応えるんじゃない」
いつになく強い口調に、フェイは少し驚きながらも小さく頷いた。
「……うん。わかった」
ルシウスは微かに安堵の息を吐き、フェイの肩から手を離そうとした。
しかし、フェイはシーツを握りしめたまま、少しだけ考え込むように視線を落とした。
「でも……」
ルシウスが再びフェイを見る。
彼女の中には、あの青年に対する得体の知れない恐怖だけではなく、別の感情が芽生え始めているようだった。
「あのお兄さん、誰なんだろう」
フェイは迷うように言葉を探し、やがてぽつりと口にした。
「……悪い人じゃない気がするの」
その言葉を聞いた瞬間、ルシウスの胸の奥に、これまでとはまったく異なる焦燥が生まれた。
世界連合軍が大軍を率いて攻めてきた時でさえ、ここまで対処に窮することはなかった。
明確な敵ならば倒せばいい。
フェイを力ずくで奪おうとする者がいるのなら、その者が誰であろうと排除すればいい。
しかし、あの青年は違う。
フェイを傷つけようとも、力で奪おうともしていない。
ただ静かに、フェイ自身の中にある「何か」へ少しずつ触れようとしている。
何を目的としているのかも分からなければ、何をしているのかさえ分からない。
これまでどれほど強大な敵を前にしても、その力を見極め、対抗する術を導き出してきたルシウスが、初めて相手の行動原理すら掴めずにいた。
そして何より、フェイ自身が、あの得体の知れない存在への警戒を少しずつ解き始めている。
「……今日はもう寝なさい。私がここにいる」
ルシウスはそう言ってフェイを再び布団へ寝かせると、ソファへ戻った。
暖炉の火が静かに揺れ、やがてフェイの穏やかな寝息が再び聞こえ始める。
ルシウスは魔導書を開くこともなく、ただ眠るフェイを見つめていた。
敵なら倒せる。
どれほど強大な存在であろうと、フェイへ向けられた刃ならば、自分がすべて叩き折ればいい。
だが、フェイ自身がその手を敵だと思わなくなった時、自分はどうやって彼女を守ればいいのか。
その答えだけは、神を殺した魔導王にも分からなかった。




