第62段階:花の向こう側
史上最大規模の襲撃から数日後。
カシアンの驚異的な修復作業によって、魔導宮は表面上、完全に元の穏やかな日常を取り戻していた。
しかし、水面下の状況は決して穏やかではない。
ルシウスはフェイの安全を優先し、極力彼女の傍を離れようとはしなかったが、その合間を縫って、執務室でカシアンと今後の対応について協議を重ねていた。
執務机の上には、世界連合との交渉資料、各国から届く抗議文や停戦条件、そして魔導宮襲撃の事後処理に関する書類が山のように積まれている。
世界は、あと約五十年しか持たないと予測されている。
深刻な食糧不足。極端な出生率の低下。
大地は広範囲で枯死し、逆に凶暴な魔物は増加の一途を辿っている。
世界を統べる王や首脳たちが、絶望的な焦燥感に駆られていることは疑いようもなかった。
だからこそ、ルシウスも各国がフェイという「奇跡」を欲しがることについて、理解できないとは思っていない。ただし。
「……理解できることと、渡すことは別だ」
ルシウスが冷ややかに言い放つと、傍らに立つカシアンも静かに頷いた。
「ええ。各国が焦るのは当然の理です。しかし、フェイ様を世界を救うための『国家資源』として扱うことを、我々が認めるわけには参りません」
彼らには彼らなりの切実な事情がある。
だが、だからといって一人の少女の人生を世界の犠牲に捧げることを、魔導宮の守護者たちが容認するはずもなかった。
その頃、フェイは中庭の花園にいた。
春の穏やかな日差しの中、フェイはあの透き通るような淡い一輪の花へ、専用の小さなジョウロで丁寧に水をやっていた。
エマたちから教わった水魔法を使えば、水やりなど一瞬で終わらせることができる。しかし、フェイは植物の世話だけは、どうしても自分の手でやりたがった。
「魔法だと、すぐ終わっちゃうから。お水をあげながら、ゆっくりお話したいの」
そんな理由で、フェイは毎日花園を訪れては、楽しそうに花へ語りかけていた。
そこへ、日向ぼっこを終えた黒猫のノアがふらりと現れた。最初はいつものようにフェイの傍へ寄ってきたノアだったが、例の一輪の花へ近付いた瞬間、ピタリと動きを止めた。
「……おかしい」
黄金の瞳が、剣呑に細められる。
「どうしたの?」
不思議そうに見下ろすフェイをよそに、ノアは花の匂いを慎重に嗅いだ。一度離れ、もう一度近付く。その動作は、明らかに得体の知れない外敵に対する強い警戒を示していた。
「この花、魔導宮のものではありません」
ノアが断言すると、フェイは目を丸くした。
「でも、ずっとここに咲いてたよ?」
「いいえ。少なくとも、私は知りません」
ノアはかつて、瀕死のところをフェイに救われている。
その際、フェイから直接命の力を分け与えられたことで、二人の間には通常の主従契約とは異なる、特殊な繋がりが生まれていた。
そのためノアは、フェイの魔力の性質や匂いに対して、ルシウスやカシアンよりも遥かに敏感だった。
「……なぜ、あなた様の魔力の匂いがするのです?」
「私の?」
フェイが驚いて花へ視線を戻した、その時だった。
ノアは全身の毛を逆立て、フェイを庇うように前へ出た。
「下がってください」
その瞬間、淡い花弁の表面に見慣れない複雑な紋様が一気に浮かび上がり、チカッと強い光を放った。
「これは……!」
ノアが即座に不可視の魔法を放ち、光る花を根元から粉々に砕き割る。
しかし、花が完全に消滅する直前、砕けた花弁を起点として空間が一瞬だけぐにゃりと歪んだ。
その歪みの中から、聞き覚えのある甘い声が落ちた。
「やっと見つけた」
フェイが弾かれたように顔を上げる。
空間の歪みから現れたのは、あの青年だった。数日前、魔導宮の回廊でルシウスと対峙していた正体不明の存在。
「……この前の人!」
フェイは本能的に危険を察知し、すぐに後退した。
「ルシ!」
大声でルシウスの名を呼ぶ。ノアも即座に低い唸り声を上げ、フェイと青年の間に立ちはだかった。
しかし、彼は敵意を見せることなく、両手を軽く上げてみせた。
「そんなに警戒しなくていいよ。きみを傷つけるつもりはないから」
子どものように無邪気な笑顔。
だが、フェイがそれを信じられるはずもなく、その場から逃げようと身を翻す。
彼はそんなフェイを見て、少しだけ寂しそうに目を細めた。
「少しだけ、じっとしてて。……ちょっと触れるよ」
「え……?」
フェイが振り返った時には、彼の姿はもう目の前にあった。
距離を詰めた気配すらなかった。
ただ、一瞬前まで数歩先にいたはずの彼が、いつの間にかそこに立っている。
ノアが飛び掛かるよりも早く、彼は小鳥を怖がらせないような優しい手つきでフェイへ手を伸ばした。
そして、どこから取り出したのか、一輪の真っ赤な薔薇を白金の髪へ髪飾りのようにそっと添える。
その指先が、ほんの一瞬だけ、フェイの髪と白い頬へ触れた。
――その瞬間。
フェイの頭の中に、知らないはずの感覚が溢れ出した。
ひどく懐かしい匂い。遠い昔の記憶。深い森、咲き乱れる花、どこからか聞こえる心地よい音楽。
自分のものではないはずの何かの断片が、フラッシュバックのように脳裏を駆け巡り、一瞬だけ胸の奥が激しく揺さぶられた。
「……なに、これ」
呆然とするフェイを見て、彼は確かめたかったものを確かめられたかのように、嬉しそうに笑った。
「やっぱり」
「……なにが?」
しかし、その問いに答えることなく、彼はフェイの髪に飾った薔薇を満足そうに眺めた。
「これだけ。またね」
その言葉を最後に、彼の姿は蜃気楼のように揺らぎ、空間から完全に消え去った。
直後、上空から凄まじい魔力の風を伴って、ルシウスが花園へ降り立った。
ノアの強い警戒反応とフェイの叫びを感知し、執務室から直接飛んできたのだ。
しかし、既に敵の姿はない。
ルシウスは真っ先にフェイを自分の傍へ引き寄せ、怪我がないことを確認する。
その直後、白金の髪に挿された見覚えのない赤い薔薇を見つけ、紫水晶の瞳が鋭く細められた。
「……何をされた」
「分からない。お花をつけられて……ちょっと、ここに触られただけ」
フェイが自分の頬を指差すと、ルシウスの表情がさらに険しくなる。
ノアは悔しそうに青年が消えた場所を睨んだ。
「……止められなかった。あいつ、普通じゃない」
ルシウスはフェイの髪から素早く薔薇を抜き取り、即座にその魔力構造を解析した。
しかし、何の魔力も、術式も検出されない。
呪いもない。毒もない。何かを媒介する術式すら組み込まれていない。
ただの、普通の薔薇だった。
結界の網の目をすり抜け、魔導宮の内部へ二度も侵入した存在が残したものが、ただの植物であるはずがない。
そう考えて何度解析しても、結果は変わらなかった。
ルシウスは手の中の薔薇を見つめたまま、低く呟いた。
「……逃がした」
その声には、明確な苛立ちが滲んでいた。
フェイは何も言わず、無意識のうちに自分の頬へ手を触れた。
ロキの指先が触れた場所。
怖かったはずなのに、そこに残っている感覚は恐怖とは少し違っていた。
知らない人のはずなのに。
初めて触れられたはずなのに。
なぜか、ひどく懐かしい。
その理由だけが、どうしても思い出せなかった。




