第61段階:残された一輪
史上最大規模の世界連合軍による襲撃が終わり、魔導宮はようやく本来の冷涼な静けさを取り戻していた。
しかし、いかに彼らが世界最強の魔導師集団であり、圧倒的な力で敵を退けたとはいえ、今回の戦いは完全な無傷で終わるようなものではなかった。
北側ではガロンが守護していた厨房の壁が半壊し、巨大な穴から冷たい風が吹き込んでいる。
南側の地下水路では、激流の衝突によって堅牢な石壁や水路設備の一部が損壊した。
ゼフィールが戦った図書館上空の周辺では、屋根の瓦や尖塔の一部が吹き飛び、
ローデンが手入れをしていた裏庭は、極大魔法の余波で地面が大きく割れ、長年育ててきた花壇も無惨に荒らされていた。
正門周辺もまた、雷帝たちとの激しい攻防によって、由緒ある石畳や彫刻の施された柱が破壊されている。
魔導宮を覆う不可視の結界そのものも各所で激しく損耗しており、全体として見れば相当な被害を受けていた。
それでも、魔導宮の使用人たちは戦闘が終わった途端、まるでいつもの掃除や洗濯といった日常の仕事へ戻るような感覚で、ただちに復旧作業を開始していた。
「あぁ……俺の特注の鍋が……。壁はどうでもいいが、これじゃ明日の仕込みが間に合わねぇ……」
若返りの魔法が解け、元の白髪混じりの姿に戻ったガロンは、ひしゃげた寸胴鍋を抱えて本気で落ち込んでいた。
彼にとっては、城の壁よりも厨房設備の方が遥かに重要らしい。
裏庭では、ローデンが荒らされた花壇の前にしゃがみ込み、無言で土を均していた。
戦闘中に折れたり傷ついたりした植物を一本ずつ丁寧に確認し、自らの魔力で優しく傷を癒しながら、再び根付けるよう土を整えていく。
「いたた……。無理な若返りは、後から反動が来ますわね」
正門付近では、元の六十代の老婦人の姿に戻ったエマが、腰をトントンとさすりながら砕けた石の破片を箒で集めていた。
アルヴィンやゼフィールも、それぞれ燕尾服や司書のローブに付いた埃を払いながら、自身の担当区域の被害状況を冷静に書き留めている。
そして、この大規模な復旧作業の中心で、すべての指揮を執っているのがカシアンだった。
彼は単なる執事や戦術指揮官ではない。彼の真の専門分野は、「守ること」にある。
結界術、防御術式、建築物の構造補強、破損した魔導設備の修復、城壁や地下水路の再構築など、魔導宮という巨大な施設を維持・管理するための技術全般において、彼は世界最高峰の知識と腕を持っていた。
過去にも神々やその軍勢との戦いによって魔導宮が大規模な損傷を受けることは幾度となくあった。
そのたびに防衛線を立て直し、破壊された設備を修復し、以前よりも強固な城へと作り替えてきたカシアンにとって、この程度の復旧作業は完全に手慣れたものだった。
結界管理室を出たカシアンは、中庭の中心に立ち、空中へ数十枚もの魔導盤を同時に展開していた。
結界の損耗率、建物の構造被害、地下水路の水圧、厨房の火脈、屋根の風抜け、庭園の地脈。
それら膨大な情報を同時に処理しながら、彼は各所で動く使用人や、自動で修復を行う使い魔たちへ的確な指示を飛ばしていく。
「北棟外壁の修復は後回しで構いません。先に第二基礎結界の術式を編み直してください」
「地下水路第三隔壁を物理的に閉鎖します。アルヴィン、二十分だけ水路の水量を落としてください」
「正門の結界杭は新しいものと交換します。破損したものは魔力伝導率が落ちていますので、再利用しないように」
一度だけ、北側の魔導盤へ視線を向ける。
「あとは……厨房ですね」
少し間を置き。
「ガロンがひどくうるさいので、優先順位を一つ上げましょう」
遠く離れた厨房跡から、「聞こえてるぞ!」という怒鳴り声が響いた。
カシアンは気にも留めない。
淡々と、しかし一秒の無駄もなく復旧が進められていく。
さらに、カシアン本人も直接修復魔法を行使していた。
白手袋に包まれた手をかざすと、砕け散った石材がふわりと浮き上がり、破片同士が正確に組み合わされながら元の位置へと収まっていく。
しかし、それは単なる「現状復帰」ではない。
カシアンの目は破損した壁の断面から構造上の弱点を瞬時に解析し、魔力回路をより強固に編み直しながら再構築していた。
今回の攻撃によって露呈した脆弱な部分は補強され、結界術式も同じ方法では二度と突破できないよう改良されていく。
修復されるたびに、魔導宮そのものが以前よりも強くなる。
それこそが、「守り」を極めたカシアンの真の恐ろしさだった。
「……カシアン様。これ、いつ頃元通りになりますか?」
瓦礫を運んでいた修復用の使い魔が尋ねると、カシアンは魔導盤から目を離すことなく、平然と答えた。
「そうですね。三日ほどでしょうか」
国一つを傾けるほどの予算と、数年単位の工期が必要になりそうな被害である。
周囲の使い魔たちは一斉に手を止め、僅かにカシアンを振り返った。
しかし本人にとっては、至極当然の予定らしい。
一方、ルシウスは戦闘終了後も、決してフェイの傍から離れようとはしなかった。
彼の心を占めていたのは、外から押し寄せた世界連合軍よりも、その混乱に乗じて結界内部へ侵入し、フェイの元へ現れた正体不明の青年のことだった。
戦闘直後から、ルシウスとカシアンは魔導宮の結界を隅々まで再点検していた。しかし、どこを調べても破られた痕跡も、不自然な魔力の残留も見当たらない。
あの青年が何者で、どうやって侵入したのか。
既存の魔導体系では、まったく説明がつかなかった。
あの時、ルシウス自身は確かに青年の喉元へ刃を突きつけた。
それでも、完全に勝ったという手応えは最後まで得られなかった。
(……得体が知れなすぎる。何かがおかしい)
執務室のソファでは、戦いの緊張から解放されたフェイが静かに眠っている。
ルシウスはその傍らに座り、白金の髪をそっと撫でながら、見えない脅威に対する警戒を静かに研ぎ澄ませていた。
それから、数日後。
カシアンの宣言通り、魔導宮の復旧作業は驚異的な速度で進み、庭園にもすっかり穏やかな日常が戻り始めていた。
麗らかな春の午後。
フェイは、ほとんど元通りになった花園をゆっくりと歩いていた。
戦闘でえぐられていた花壇もローデンの手によって綺麗に整え直され、生命の樹の力も相まって、すでに瑞々しい新芽があちこちから顔を出している。
その花壇の片隅で、フェイはふと足を止めた。
「あ……」
他の華やかな花々に紛れるようにして、一輪の見覚えのない花が咲いていた。
透き通るような淡い色彩を持った、非常に美しい花だった。
魔導宮の敷地内にある植物をほとんど把握しているローデンでさえ気付かなかったほど、まるで最初からずっとそこに咲いていたかのように、ごく自然に周囲の風景へ溶け込んでいる。
邪悪な魔力は一切発していない。呪いの術式も、毒の反応もない。魔導宮の厳密な結界システムですら、それを「ただの花」として処理し、何の警告も発していなかった。
フェイはしゃがみ込み、その花を見つめて嬉しそうに微笑んだ。
「きれいなお花」
そっと指先で花弁へ触れる。
冷たい春の風の中で、その花は健気に咲いているように見えた。
フェイはすっかりその花を気に入り、翌日から花園を訪れるたびに、自分専用の小さなジョウロで水を与えるようになった。
水魔法なら一瞬で済む。それでもフェイは、花に触れ、毎日様子を見ながら育てる時間が好きだった。
「おはよう。今日も元気だね」
フェイが自然な愛着を持って語りかけ、水を与えるたび、花は少しずつ美しく、艶やかに育っていった。
しかし、その花が求めているものは、水だけではなかった。
フェイが花弁へ触れ、あるいは水を与えながら優しく茎へ手を添えるたびに、彼女の身体からほんの僅かな魔力が、静かに花の中へと流れ込んでいく。
あまりにも微量なため、フェイ自身もまったく気付かない。
傍で見守るルシウスにも、魔導宮の結界にも感知できないほどの微細な変化だった。
花はフェイから流れ込む魔力を少しずつ蓄えていく。
そして、その魔力を媒介として。
誰にも見えない何かが、魔導宮の奥深くへ、少しずつ根を伸ばし始めていた。
フェイが花から手を離した後、一瞬だけ、その淡い花弁の表面に見慣れない複雑な紋様が薄っすらと浮かび上がる。
しかし、それも瞬きをする間に消えてしまう。
その静かな異常に、気付く者は誰もいなかった。
夕方。
日が落ち始め、花園が茜色に染まる頃。
フェイはいつものようにジョウロで水をあげ終え、ふわりと立ち上がった。
「また明日ね」
にこりと笑いかけると、ルシウスの待つ執務室へ向かって花園の小道を歩いていく。
やがて彼女の足音が遠ざかり、花園には誰もいなくなった。
春の少し冷たい風が吹き抜け、無数の花々が一斉に同じ方向へ揺れる。
その中で、フェイが毎日水を与えている、あの一輪だけが。
風とは反対の方向へ、ゆっくりと花首を動かした。
見つめる先は、フェイが消えていった回廊の奥。
そして、その透き通るような花弁の最も深いところで、一瞬だけ、小さな光が灯った。
まるで誰かが、その向こう側からフェイを見つめているように。




