第60段階:道化の爪痕
世界連合軍が前線基地として接収した巨大な砦は、今や凄惨な野戦病院と化していた。
次々と運び込まれる負傷兵のうめき声と、走り回る治癒魔導師たちの切羽詰まった怒号が飛び交っている。
血の染み込んだ担架が冷たい石の廊下に所狭しと並べられ、作戦開始前の熱狂的な緊張感は完全に消え失せ、底なしの絶望と敗北の重苦しい空気が施設全体を覆い尽くしていた。
奥の重厚な扉に閉ざされた会議室では、各国の指揮官や王族、軍の最高責任者たちが集まり、魔導通信から次々と届く悲惨な報告を青ざめた顔で聞いていた。
「北部隊、壊滅……生存者の回収も困難です」
「上空部隊、現在生存者を確認中ですが、絶望的かと」
「正門部隊、戦闘継続不能。雷帝殿下も重傷を負われました」
次々に読み上げられる凄惨な報告に、誰もが言葉を失っていた。長きにわたる沈黙を破るように、誰かが低く絞り出すように呟いた。
「……失敗した」
その一言を、誰も否定することができなかった。
目的であったフェイの身柄確保はおろか、魔導宮の防衛陣を打ち崩すことすらできず、こちら側だけが各国が長い年月をかけて育成してきた最高峰の魔導師たちを大量に失うという、歴史的な大敗北を喫したのだ。
「これだけの戦力を投入して……何一つ得られなかったというのか」
「だから言ったのだ。魔導宮には勝てない。最初から分かっていたはずだ!」
「いや、あの男だ。あの男が確実に成功すると言ったから、我々はこれだけの犠牲を払って兵を出したのだぞ……!」
行き場のない怒りと責任の所在を探す無数の視線が、一斉に会議室の隅に立つある青年魔導師へと向けられた。
かつて禁書庫で謎の声を聞き、封印されていた存在を解き放ったあの青年は、真っ青な顔で震えていた。見えざる声を信じ、この大規模な作戦の中核に関与したものの、結果だけを見れば完全な失敗である。
権力者たちからの責め苦のような視線に耐えきれなくなった青年は、逃げるように会議室を飛び出した。
砦の人気のない裏手まで逃げ込んだ青年は、荒い呼吸を整えながら、他の人間には聞こえない脳内の存在へと怒りをぶつけた。
「どうするんだ!?」
普段はあの甘い声に従順だった青年が、珍しく感情を剥き出しにして声を荒らげる。
「甚大な被害を被った挙句、負けたではないか!
目標を連れ出すこともできなかった!
魔導宮を落とすどころか、こちらの精鋭部隊が壊滅したんだぞ!」
自分の地位も、未来も、すべてが終わった。
絶望から来る怒号を響かせる青年に対し、頭の中に響くその声は、相変わらず甘く、どこまでも楽しげだった。
『負けた?』
青年が何を言っているのか、本当に意味が分からない。そんな不思議そうな響きだった。
「そうだ! 作戦は完全に失敗した!」
青年が苛立ちを込めて叫び返すと、頭の中の存在は声を出してくすくすと笑い始めた。
「……何がおかしい? 結局、我々は何も手に入れられなかったではないか!」
青年が問い詰めるが、謎の存在はまるで大したことではないように、ひどく楽しそうに答えた。
『十分だよ』
青年はその意味が理解できず、息を呑んで沈黙した。
「……何が?」
声は答えない。
ただ、魔導宮の奥深くで神殺しの魔導王と交えた短い戦闘の余韻を、まるでお気に入りの玩具を見つけた子どものように心底楽しんでいる気配だけが伝わってくる。
青年は混乱し、もう一度縋るように問いかけた。
「何が、十分なんだ?」
頭の中の声は、親の目を盗んで秘密の悪戯を成功させた子どものように、くすくすと笑い声を漏らす。
『だって』
ほんの少しだけ、間が落ちる。
――戦いが終わり、静けさを取り戻した魔導宮。
主の力を受けて元に戻ったとはいえ、激しい戦闘によって破壊された庭や、ひび割れた回廊の惨状はそのまま残されている。
その静寂に包まれた風景の片隅に、一見すると何の変哲もないものが、ひっそりと佇んでいた。
誰も気付かず、風景に溶け込んで見落としてしまうような微かな異物。
再び、青年の頭の中に声が響いた。
『十分だよ』
『置いてきたから』




