第90段階:いつもの十五時
魔導宮から抜け出し、夜の生命の樹の根元に立ち尽くすフェイは、
突きつけられたあまりにも残酷な真実を前に声もなく凍りついていた。
死に向かう世界を、ルシウスが自身の魔力と生命力そのものを削り出して強引に延命し続けている。
そして、生命の樹という器ではなく、それを支えるルシウスの命の方が先に限界を迎えようとしている。フェイが戻ってきたこの世界は、すでに引き返せない淵のぎりぎりに立っていた。
「……気づいちゃったみたいだね」
不意に、静寂を破る声が降ってきた。
振り返ると、生命の樹の巨大な根の一つに腰掛けた男性が、薄明かりの中で静かにこちらを見下ろしていた。
ロキだ。
彼はフェイがここへ来ることを、そして真実に気づくことを予期していたようだった。
しかし、すべてを知った上でフェイをこの場所へ誘導した黒幕のような冷たさは微塵もない。
彼もまた、神代の理を知る数少ない存在として、ルシウスの狂気じみた延命処置と
この世界がもう永続できないことを理解している一人だった。
フェイは生命の樹の幹に触れていた手をゆっくりと下ろし、震える声で尋ねた。
「ロキ……教えて。どうすれば、この樹を救えるの?」
フェイの悲痛な声が、夜の空気に溶ける。
「どうすればルシが……これ以上、自分の命を使わなくて済むの? この世界を生かす方法は、もうないの?」
ロキはすぐには答えなかった。
いつものような飄々とした軽口を叩くことはない。
フェイが何を尋ねているのか。
そしてその「答え」がフェイに何を強いることになるのかを、痛いほど理解している。
しばらくの重い沈黙の後、ロキはゆっくりと根から飛び降り、フェイの前に立った。
「……方法が、一つだけある」
ロキの赤い瞳が、フェイを真っ直ぐに射抜いた。
「神と生命の樹が、完全に融合することだ」
それは、あまりにも異質で究極の解決策だった。
生命を司る神そのものが生命の樹の深層と一体化すれば、かつてのように外部から神々の力や神界の水を供給し続ける必要はなくなる。
神と樹が一つの生命体となり、それ自体が自立した生命循環の根源になるのだ。
そうすれば、世界の循環は永続し、ルシウスがこれ以上自身の命を注ぎ続ける必要もなくなる。
ただし、それが可能なのは誰でもいいわけではない。
「いーちゃん。きみは生命を司る女神であり、かつてこの樹そのものを管理していた」
生命の樹がフェイに強く反応し、飢えたように脈動したのはそのためだ。
樹はフェイを本来の管理者として認識しただけではなく、失われた生命循環を自己完結させるための、最後のピースとして求めていたのだ。
フェイは息を呑んだ。
融合すれば、どうなるのか。
肉体を持った今の「フェイ」として生き続けることは到底できない。
単純な死亡とは違うかもしれないが、意識や人格がどこまで保たれるのかも分からない。
少なくとも、もう二度と魔導宮へ帰ることはできない。
ルシウスの隣で今まで通り暮らすことも、彼とくだらない話をして笑うこともできなくなる。
フェイにとってそれは、ようやく自分で選び取り、愛するようになった
「今の人生」を、完全に捨てるということだった。
ロキは決して、フェイに融合を迫るような口調ではなかった。
むしろ、彼自身はこの恐ろしい答えを教えることをひどく嫌がっているように見えた。
彼はいつだってフェイの意思を尊重し、世界のためだからといって彼女が犠牲になる義務などないと考えている。
かつて人間を救うためにすべてを捨てた彼女に、
もう一度世界のために自分を捨てろなどと、誰が言えるだろうか。
それでも、フェイが真実を求めた以上、彼は嘘をつくことだけはしなかった。
フェイはロキの言葉を静かに受け止め、その夜は生命の樹と融合することはなかった。
ロキにも明確な決意を告げることなく、
フェイはただ黙って生命の樹から手を離し、夜の魔導宮へと引き返していった。
翌朝。
魔導宮には、いつもと何一つ変わらない朝が訪れた。
フェイは誰にも、昨夜生命の樹の根元で知った真実を話さなかった。
着替えを手伝ってくれるエマと普段通りに笑って会話を交わし、ガロンが腕によりをかけて作った温かい朝食をしっかりとお腹に収めた。
魔導宮の美しい回廊を歩き、すれ違う使用人たちに挨拶をし、カシアンとも他愛のない言葉を交わした。
泣き腫らした顔を見せることも、露骨に別れを惜しんで抱きつくようなこともしない。
フェイは極めて意図的に、「いつもの一日」を過ごしていた。
なぜなら、この何気ない日常こそが
神格も記憶もすべてを失ったフェイ自身が、
新しく見つけ、心から愛した宝物だったからだ。
そして、十五時。
いつものように、ルシウスの執務室の扉をノックする。
「入れ」
低い声に応えて中へ入ると、いつもの席にルシウスが座っていた。
いつものように温かい紅茶が淹れられ、ガロンが焼いたいつもの甘い焼き菓子がテーブルに並べられている。
それは、フェイにとってこの一日の中で最も感情を揺さぶられる、大切な時間だった。
しかし、決して悲壮な会話にはならなかった。
ルシウスは昨夜の出来事など何も知らない。
彼が書類から目を離して仕事の進捗を短く語り、
フェイが庭で見つけた珍しい花の話や、ガロンがまた新しい菓子の試作に失敗したというくだらない話をして、
ルシウスが小さく呆れたように息を吐く。
徹底して、普通で穏やかな日常。
だからこそ、その風景はひどく残酷で、美しかった。
フェイだけが、この温かい時間をもう二度と過ごせなくなることを知っているのだ。
フェイは会話の合間に、ルシウスが淹れてくれた紅茶のカップを両手で包み込んだ。
温かい陶器の温度を手で確かめる。
書類に視線を落としている彼の端正な横顔を、いつもよりほんの少しだけ長く見つめていた。
明日にはこの温かさも、この透き通った紫水晶の瞳も、彼の長い睫毛も、ひどく落ち着く声も、
全部感じられなくなるのだろうか。
「どうした」
視線に気づいたルシウスが、顔を上げてフェイを見た。
フェイはカップから口を離し、ふわりと自然な笑顔を作った。
「なんでもない」
かつてはルシウスが痛みを隠すために口にしていた言葉を、今度はフェイが口にした。
神として生を受けて以来、初めて、嘘をついた。
その時、女神としての感覚が研ぎ澄まされているフェイは、ルシウスの生命力が昨日よりもさらに僅かに弱っていることに気が付いていた。
彼の命の砂時計は、もう残り少ない砂を落とし続けている。
ルシウス本人はいつも通り平然としている。
自分の身体の異変について一言も口にしない。
フェイも、もうそれを問い詰めることはしなかった。
彼が限界に達する前に
自分が、答えを出さなければならない。
その日の夜。
魔導宮が深い静寂に包まれ、誰もが眠りについた頃、
フェイは自室で静かに立ち上がった。
部屋の机の上に、長い遺書や全員への手紙を残すような真似はしなかった。
誰かに知られれば、必ず止められる。
優しいエマも、ぶっきらぼうなガロンも、冷静なカシアンも、そして千年待ち続けたロスカでさえ。
特にルシウスが知れば、彼は自分の命が尽きるまで、絶対にフェイを生命の樹と融合させたりはしないだろう。
だからフェイは、誰にも告げなかった。
昨日と同じように音を立てずに自室を出て、冷たい夜の回廊を歩く。
しかし、昨日とは向かう目的がまったく違う。
昨夜は「世界を救う答えを知るため」に生命の樹へ向かった。
今夜は、自分がその答えになるために向かっているのだ。
いや、違う。
私が救いたいのは、世界ではない。
夜の闇の中、フェイは一人で生命の樹の前へと辿り着いた。
巨大な樹は、本来の管理者が戻ってきたことを歓迎するかのように、
フェイの存在に呼応して微かに、だが力強く脈動を始めた。
フェイはしばらくの間、淡く発光する巨大な幹を静かに見上げていた。
この世界には、エマの優しい笑顔がある。
ガロンの作る美味しい食事がある。
カシアンの的確な助言があり、ロスカの温かい毛並みがあり、ロキの他愛のない冗談がある。
そして何より、不器用で、言葉足らずで、毎日十五時にお茶を一緒に飲む、ルシウスがいる。
神代ですべてを失い、空っぽになったフェイが、この世界で新しく見つけた大切なものたち。
彼らが生きるこの世界を、彼らの笑顔を
そして彼ら自身を、ただ守りたかった。
そして、神々が滅びてからの何百年もの間、誰にも告げずにたった一人で世界を背負い続けてきたルシウスを、もうその冷たい孤独と苦痛の連鎖から解放したかった。
フェイはゆっくりと生命の樹へ歩み寄り、何の迷いもなく、その巨大な幹へと両手を伸ばした。
手が樹皮に触れた瞬間、生命の樹がフェイの意思に応えるように凄まじい脈動を起こした。
幹の奥底から眩い光が溢れ出し、大地の根元から広がるようにフェイの身体を包み込み始める。
フェイは目を閉じ、愛する者たちが生きる明日を願いながら、その光の中へと静かに沈んでいった。




