第7段階:生命の樹
フェイが魔導宮にやって来てから1ヶ月。
城で働く僅かな使用人たちは、日常の中に潜む「違和感」という名の奇妙な変化を肌で感じ取っていた。
広大な庭を手入れする庭師は、首を傾げながら剪定バサミを動かしていた。
「……今年は、緑の伸びが異様に早いな」
厨房では、籠の中身を確認した料理長が不思議そうに呟く。
「……鶏の卵が、また増えている」
そして、フェイの世話を焼くエマは、すれ違うメイドたちの顔を見て微笑んだ。
「お嬢様がいらしてから、なんだか皆さん顔色が良いですねぇ」
報告を受けたカシアンは、手元の書類から目を離さずに淡々と処理した。
「……偶然でしょう」
世界が死に向かっている以上、生命力が急激に活性化するなどという事象は論理的にあり得ない。
カシアンは有能な参謀らしく、それをただの誤差として片付けた。
しかし、奇跡は誰も見ていないところで、無邪気に種を蒔かれていたのだ。
エマから教えられた「大人の階段」に少しだけ戸惑いながらも、新しい下着に着替えてすっきりとしたフェイは、その足で裏庭の鶏小屋へと向かった。
彼女はしゃがみ込み、網越しにコッコッと鳴く鶏たちを愛おしそうに見つめた。
「鳥さん。オムレツ、ありがとう」
フェイは、初めての温かい食事を思い出して柔らかく微笑んだ。
「すっごく美味しかった! ……いっぱい卵、産めるといいね」
それは、ただの純粋な感謝と、ささやかな願い。
フェイが鶏たちにそんな言葉をかけたことなど、ルシウスも、カシアンも、誰一人として知る由もなかった。
翌朝。
厨房から、料理長の戸惑う声が響いた。
「……昨日より、十二個も多いぞ?」
さらに数日後。
卵を割ろうとした料理長は、その中身の僅かな重さと感触に息を呑んだ。
「有精卵……? バカな、雄鶏は数年前に死んだはずだぞ……どこかから紛れ込んできたのか?」
生命を生み出すことのない死にゆく世界で、あり得ないはずの鼓動が、確かに芽吹き始めていた。
そして、その2週間後。
フェイは、庭師が管理する花園で色とりどりの花々に囲まれながら、楽しそうに話しかけていた。
「おはよう、今日も綺麗だね。
あ、こっちの子はお水が欲しいの?」
作業の手を止め、そんなフェイの姿を微笑ましく見守っていた庭師。
ふと、フェイが不思議そうに彼の手前、その背後を指差した。
「あれ、なぁに?」
「え?」
庭師がゆっくりと振り返る。
そこにいたのは
真っ青な宝石のように輝く羽を羽ばたかせ
ひらひらと優雅に宙を舞う、一匹の美しい蝶だった。
「…………っ」
庭師の全身が、石のように固まった。
震える手から、ガシャンと音を立ててジョウロが地面に落ちる。
彼の口から、掠れた声が漏れた。
「……ユリシス」
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「閣下!!」
重厚な書斎の扉が、ノックもなしに勢いよく開け放たれた。
血相を変えた庭師が、息を乱して飛び込んでくる。
「庭師ローデン殿、いかがなさいました。閣下の御前ですよ」
カシアンが咎めるように眉をひそめるが、庭師は構わず叫んだ。
「足早にご確認を! 花園に……ラグナロクと共に絶滅したはずの蝶、ユリシスが、花園に現れました!!」
「……っ、そんなバカな……!」
常に冷静沈着なカシアンが、手元の羽ペンを折らんばかりの力で握りしめ、驚愕に目を見開いた。
ユリシス。
かつて魔法文明が最も栄えていた時代、神々の祝福を受けた森にのみ生息していた幻の蝶。
ラグナロクの業火によって世界が焼かれた日、完全に絶滅したとされていた生命。
それが、存在するはずがない。
新たな生命など、この世界には絶対に――。
ガタッ!!
激しい音が、書斎に響いた。
カシアンとローデンがハッとして振り返る。
重厚な執務机の奥で、何百年もの間
どれほどの強大な魔物が出現しようと、世界そのものがどれほど崩壊に近づこうと
常に氷のように冷徹に座り続け、世界の終焉すら静かに受け入れてきた魔導王が
初めて、考えるより先に立ち上がっていた。
ルシウスが転移をもどかしく思うほどの歩調で花園へ足を踏み入れると、そこには信じられない光景が広がっていた。
「待ってー! もっと遊ぼうよ」
灰色の空の下、フェイが無邪気な声を上げながら走っている。
彼女の前をひらひらと逃げるように、しかし誘うように舞っているのは
サファイアを溶かしたような深い青色
――間違いなく、伝説の蝶「ユリシス」だった。
カシアンは自らの目を疑いながらも、即座に懐から記録用の魔石を取り出し、この「あり得ない事象」を映像として後世に残すべく証拠撮影を開始した。
手ブレ一つ起こさないその手は、しかし微かに白く強張っていた。
「閣下……間違いありません。
あの蝶は、数百年前のラグナロクと共に絶滅したはずの伝説の蝶、ユリシスです」
カシアンの低い声が、震えを帯びて響く。
「蝶はユリシスだけではありません。
あの日、蛾も含めてすべて全種類が絶滅しています。
現存していること自体が、絶対にありえません」
「……」
ルシウスは一切の言葉を発しなかった。
ただ無言のまま、青い軌跡を追って駆けていくフェイの小さな背中を追い、静かに歩みを進める。
ユリシスを追うフェイは、花園を抜け、魔導宮の奥深くに広がる立ち枯れた森の中へと入っていった。
ルシウスとカシアンがその後を追って森の最深部へ足を踏み入れると、そこには視界を覆い尽くすほどの、巨大な枯れ木がそびえ立っていた。
かつては天を衝くほどに茂り、世界中に魔力と生命の息吹を与えていたとされる神話の残骸。
今は無残にひび割れ、樹皮は剥がれ落ち、わずかな魔力の残滓を放つだけの骸。
「これは……生命の樹」
カシアンが圧倒されたように呟く。
「ああ。……だが時間の問題だ」
ルシウスの紫水晶の瞳が、巨木の内部で消えかかっている微弱な魔力の脈動を正確に読み取る。
数百年持ちこたえてきたこの星の心臓も、完全に沈黙するまであとわずか。
ルシウス自身でさえ、どうすることもできない世界の寿命そのものだった。
ユリシスは、その生命の樹の黒く干からびた幹に、ふわりと羽を休めるように留まった。
蝶を追いかけてきたフェイは、目の前の巨大な樹を見上げ、ピタリと足を止めた。
彼女はユリシスを捕まえようとはしなかった。
ただ、痛々しくひび割れた生命の樹の表面を、とても悲しそうな、けれど慈しむような瞳で見つめていた。
ゆっくりと近付き、フェイは両手を広げて、その巨大な幹をそっと抱きしめた。
彼女の小さな腕では、巨木のほんの一部を覆うことしかできない。それでも彼女は、病気の友人を慰めるように、そっと頬を樹皮に擦り寄せた。
「……苦しいの?」
静かな森に、フェイの透き通るような声が響く。
「大丈夫だよ」
そう言って、フェイは小さく硬い手で、生命の樹を優しく撫でた。
その瞬間。
死に絶え、二度と芽吹くことはないと思われていた生命の樹の太い枝の先から。
――ぽっ、と。
一枚の、色鮮やかで瑞々しい緑の葉っぱが、音もなく生まれた。




