第5段階:名前という愛情
その日の夜。
少女に与えられた客室(ただし、ベッドの寝具一式はカシアンの手配により最高級品へとすり替えられている)では、温かな魔力灯の光の下、エマがベッドサイドで一冊の絵本を読んでいた。
魔法文明が栄えていた時代から伝わる、古いおとぎ話。
『星の妖精フェイ』の冒険譚を少女はふかふかの布団にすっぽりと包まりながら
目をキラキラさせて聞いていた。
「――そしてフェイは、夜空の特等席でまたたきました。これでおしまいですよ」
エマがゆっくりと絵本を閉じると、少女はふうっと感嘆の息を吐き出した。
「ねぇ。この子、フェイっていうの?」
「そうですよ」
エマが優しく微笑み返す。
「みんな、名前あるの?」
「あります」
当然のこととして答えたエマの言葉に。
少女は、ほんの少しだけ沈黙した。
「……私、ないの」
エマの笑顔が、ピタリと固まる。
「だから、みんな便利だなって思ってた」
悲しいわけでも、寂しいわけでもない。
ただ”名前があれば便利だろうな”という、純粋な感想。
草を食べて飢えをしのぎ、誰にも名を呼ばれることなく生きてきた彼女にとって、それは当たり前のことだったのだ。
エマは、言葉を返すことができなかった。
ただ静かに少女の頭を撫で、彼女が規則正しい寝息を立て始めるまで、その傍らに寄り添い続けた。
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少女が眠りに落ちたのを見届けると、エマは部屋を出た。
そして、休むことなく真っ直ぐに、主であるルシウスの書斎へと向かった。
重厚な扉の奥。
山のように積まれた古文書の束の中で、ルシウスはペンを走らせていた。
「閣下」
エマは深く頭を下げ、直訴した。
「お嬢様にお名前を」
ルシウスは、本と書類から一切目を上げることなく、淡々と返した。
「必要ない。ただの観察対象だ」
冷徹な主の言葉。
普段のエマであれば、ここで引き下がっていただろう。
しかし、今夜ばかりは違った。
彼女は珍しく、強い語気で食い下がった。
「閣下。人は、名前を呼ばれて初めて、人になります」
ペンの音が、ピタリと止まった。
「……」
「名無しでは、あまりにも不憫でございます」
静寂に包まれた書斎で、ルシウスはゆっくりと顔を上げた。
無機質な紫水晶の瞳が、エマを真っ直ぐに見据える。
「名前とは、識別記号だ」
感情を交えない、極めて論理的な答え。
しかし、長年この不器用な主に仕えてきた老メイドは、優しく、けれどきっぱりと微笑んだ。
「違います。愛情です。」
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翌朝。
朝陽が差し込む廊下で、ルシウスは少女の姿を目に留めた。
カシアンが手配した凄腕の仕立て屋が徹夜で仕上げたのか、昨日よりも格段に身なりのいい、しかし彼女の無垢さを邪魔しない可憐な服を着ている。
エマによって綺麗に結い上げられた髪。
朝の光を浴びて微笑むその姿は、まるで一輪の美しい花のようだった。
ルシウスは立ち止まり、少女を見下ろした。
昨夜のエマの言葉が、脳裏を過る。
『愛情です』
ルシウスは微かに眉間を寄せ、小さく息を吐いた。
そして、あくまで論理的に、極めて事務的な口調を装って宣告した。
「……識別名が必要だ」
「シキベツ?」
首を傾げる少女に対し、ルシウスは視線を少しだけ逸らして言った。
「仮称を与える。“フェイ”」
それは、昨夜彼女が目を輝かせて聞いていた絵本の主人公の名前。
「フェイ?」
少女は目を瞬かせ、それから、花が弾けるような満面の笑みを浮かべた。
「 やった!私の名前!」
自分の名前。
自分だけの、呼ばれるための言葉。
大喜びでその場でくるりと回るフェイを見て、ルシウスは小さく頷き、踵を返そうとした。
しかし、フェイは彼を呼び止めた。
「ねぇ!
……変な人の名前は、なんていうの?」
その無邪気な問いに、ルシウスは少しだけ沈黙した。
数百年もの間、彼が自ら名乗る必要など一度もなかった。
誰もが知っている。
誰もが畏れる。
神を殺した魔導王。絶対的な支配者。
だから、「私はルシウスだ」と己の口から名乗る機会など、本当にただの一度もなかったのだ。
「……ルシウス」
静寂の廊下に、低い声が落ちた。
フェイは、もらったばかりの宝物を確かめるように、その名前を口の中でゆっくりと転がした。
「ル……シ……ウス」
「ああ」
「ルシウス」
彼女は花が咲くような笑顔になり、嬉しそうに何度も呼んだ。
「ルシウス」
「ルシウス」
「ルシ」
ピクリ、と。
ルシウスの端正な眉が、わずかに動いた。
「略すな」
「長いもん」
魔導王の威厳を一切の悪びれもなく粉砕するフェイ。
そこへ、朝の報告にやってきたカシアンが恭しく一礼して声をかけた。
「おはようございます、閣下」
フェイはきょとんとして、カシアンとルシウスを交互に見比べた。
「カッカ……? みんな知ってる名前なんだ」
「そうだ」
と、ルシウスが平然と答える。
フェイは目を丸くした。
「有名なの?」
――シーン。
廊下が、水を打ったように静まり返った。
背後に控えていたエマも
たまたま通りかかった執事長も
そして、完璧なポーカーフェイスを誇るカシアンでさえも。
全員が「えっ? 今さら?」という顔で完全に硬直した。
神殺しの英雄にして、この世界の絶対権力者を捕まえて
「有名なの?」と言い放つ存在など、歴史上彼女だけだ。
当のルシウス本人だけが、相変わらず無表情のまま平然と立っている。
しかし、フェイの無自覚な追撃はそこで終わらなかった。彼女はさらに首を傾げ、この上なく純粋な疑問を口にした。
「ねぇ。ルシウスって、どういう意味?」
「…………」
「…………」
「…………」
――廊下にいる全員の思考が、完全に停止した。
カシアンが、引きつりそうになる頬を必死に抑えながら、小さく咳払いをする。
「……お嬢様。そのような質問を閣下になさった方は、おそらく世界で初めてかと存じます」
フェイは不思議そうに瞬きをした。
「そうなの? だって、名前って意味あるでしょ? フェイは妖精だったよ? ルシウスは?」
フェイの澄んだ瞳が、ルシウスを真っ直ぐに見上げる。
ルシウスは数秒だけ沈黙し、自身の遠い記憶の底を探るように、静かに答えた。
「……古い言葉で、『光』だ」
その瞬間、フェイの表情がぱあっと明るく輝いた。
「光! ぴったり!」
彼女は両手を打ち合わせ、無邪気に笑う。
「だって変な人、キラキラしてるもん!」
ルシウスは、ほんの一拍だけ沈黙した。
その言葉に、ルシウスはわずかに視線を逸らし、極めて事務的な、抑揚のない声で答えた。
「……魔力の反射だ」
(――違います。閣下は今、照れていらっしゃいます)
カシアンは、微かに耳の先が赤くなっている絶対的な主の姿を横目に
心の中で鋭く、そして完璧なツッコミを入れたのだった。




