第57段階:盤上の支配者
ここまでの五つの戦場。
北の料理長ガロン。
南の執事長アルヴィン。
上空の司書ゼフィール。
地下の庭師ローデン。
そして、正門の侍女エマ。
春の陽光に包まれていた穏やかな魔導宮は、今や全方位からの苛烈な攻撃に晒されていた。
世界中から選び抜かれた精鋭部隊を相手に、魔導宮が誇る世界最強クラスの魔導師たちは互角、いやそれ以上の戦いを繰り広げている。
しかし、これだけの絶大な力を以てしても、誰一人として完全に敵を打倒し、勝ち切ることができていなかった。
魔導宮の心臓部とも言える、結界管理室。
薄暗い部屋の壁一面に展開された巨大な魔導盤には、北、南、東、西、地下、上空と、魔導宮を取り巻くすべての戦況がリアルタイムの赤い光点となって明滅を繰り返している。
その盤面の中央に立つ執事カシアンは、魔導宮の誰よりも冷静だった。
無数の情報を並行処理し、戦況を俯瞰し続ける彼の瞳に、最初はほんの僅かな「違和感」だけがよぎった。
少し離れた場所では、フェイが両手を固く握りしめて魔導盤を見上げている。
そのすぐ傍らには、いざという時に彼女を守れるよう、ルシウスが静かに立っていた。
「……妙ですね」
カシアンは、手元の術式を操作しながら戦場へ通信を繋いだ。
「ガロン」
『なんだ』
怒号と、鼓膜を劈くような水蒸気爆発の音の向こうから、ガロンの太い声が返る。
「敵は、撤退しませんか」
『ああ。しぶといなんてもんじゃねぇ。俺の炎を何発も食らって、部隊の半数はもう動けねぇはずだ。
なのに、足を引きずってでも魔法を撃ってくる』
「……死傷者が多数出ているにもかかわらず、まだ向かってくるのですね」
カシアンは通信を切り、アルヴィン、ゼフィール、ローデン、エマの各戦場も順番に確認する。
結果は、全員同じだった。
敵は防衛網を突破できる見込みは万に一つもなく、死傷者も多数出ている。
それなのに、誰一人として背を向けて逃げようとしないのだ。
カシアンは、魔導盤の表示を戦術解析モードへと切り替えた。
各国の精鋭部隊の配置、魔導師たちの動線、魔法の発動周期、侵攻速度、そして兵法として当然想定されるべき撤退経路。そのすべての情報を幾重にも重ね合わせ、何百通りものシミュレーションを瞬時に計算していく。
数秒後。
導き出された一つの解を見て、カシアンは静かに呟いた。
「違います。
これは……魔導宮を陥落させるための、攻城戦ではありません」
カシアンは魔導盤をさらに拡大する。
敵の戦力は、各所へ不自然なほど均等に配置されている。
突破口を開こうと一点に戦力を集中させることもなく、防衛陣を絶対に突破しようとしていない。
いや、突破する気など最初からないのだ。
彼らの目的は、「前進」ではない。
現状の維持。戦線の「固定」だ。
カシアンの冷徹な瞳が、氷のように細められた。
「……そういうことですか。愚直なまでの死兵の群れだと思いましたが、それこそが狙いでしたか」
ただちに、全戦闘員へ一斉通信を飛ばす。
「皆様。敵を倒し切る必要はありません。現状を維持し、絶対に持ち場を離れないでください」
突然の指示に、激戦を繰り広げていた全員が驚きを示した。
『……分かってる』
『ええ』
『承知しました』
誰も理由は聞かない。カシアンがそう言うなら、それが絶対の最適解であると理解しているからだ。
陣形を崩して本陣へ戻ろうとすることこそが、敵の罠に嵌ることになるのだから。
カシアンは通信を終えると、すぐ後ろに立つルシウスへと振り返った。
「閣下。敵は勝利を目的としていません。時間を稼いでいます。
各戦場を強引に膠着状態へ持ち込み、こちらの戦力をそれぞれの配置へ完全に『縫い付けている』のです。守護者たちを各方面に引き剥がし、陣形を維持させることで……」
カシアンの白手袋に包まれた指先が、魔導盤の中央を示す。
「狙いは、手薄になった本陣。……フェイ様です」
その言葉に、フェイが短く息を呑む。
彼女を守るように立つルシウスは、紫水晶の瞳を静かに細め、冷たく言った。
「……そうか」
ルシウスの身から、静かだが底知れぬ魔力の波動が漏れ出す。
五つの戦場で世界最高峰の魔導師たちが足止めを食らっていようとも、この本陣には彼がいる。
神殺しの魔導王が控えている以上、誰が来ようと結末は同じはずだった。
――しかし。その瞬間だった。
魔導盤の中央。
魔導宮の内部。カシアンやルシウスたちがいる場所からほど近い、結界の内側の空白領域に。
極小の赤い光点が一つだけ、チカッと現れた。
小さい。あまりにも小さい。
普通なら、結界のノイズか、春を告げるために迷い込んだ小鳥などの微弱な反応として処理される程度の光点だ。
しかし、カシアンの目だけは、その不自然さをごまかせなかった。
「……!!」
カシアンは目を見開き、魔導盤を最大倍率まで拡大する。
光点、反応、極小、魔力も極小。
だが、そこには確かな「生命反応」がある。
「侵入……?」
カシアンの口から、信じられないというような声が漏れる。
「どこから入った……結界に破られた痕跡など、一切ないはずです」
カシアンは即座に魔導盤を操作し、光点への追跡術式を起動する。
しかし、赤い反応が、ふっと消えた。
そして数メートル先でまた現れ、瞬きする間に再び消える。
それはまるで、魔導宮が誇る絶対的な結界システムそのものを嘲笑い、システムの隙間を縫うようにして欺いているかのようだった。
常に冷静沈着な執事の端正な顔に、この日初めて、明確な「焦り」が浮かんだ。
先程のような通信越しではなく、目の前にいるルシウスへ向けて、直接、緊迫した声を上げる。
「申し訳ありません、閣下!
……敵の本命が、既に結界の『内側』に潜り込んでいます!」
その報告に、ルシウスがフェイを背中へ庇うように一歩前へ出た。
場面転換。
そこは、春の陽光が差し込む魔導宮の回廊。
外の激戦の喧騒が嘘のように静まり返った、結界の内側の安全地帯。
まだ、その姿は輪郭を持たず、空間に溶け込んでいるかのように見えない。
ただ、軽やかで小さな足音が一つ、大理石の床を叩く音だけが響く。
そして。
世界最高の頭脳を持つカシアンの目を欺き、魔導宮の絶対防衛線を悠々とすり抜けたその存在は、誰もいない暗闇の中でくすくすと、子どものように無邪気に笑った。
『……あ、もう気付いたんだ。』
くすり、と笑う。
『ふふっ。』
鈴を転がすような、甘く不気味な笑い声が少しずつ大きくなる。
『あはは。楽しいねぇ。』
魔導宮の最強戦力を外に釘付けにし、ただ一人で神殺しの王が待つ本陣へと歩みを進める謎の存在。
その純粋で無邪気な笑い声だけが、静寂の魔導宮の廊下に、ひどく不気味に響き渡っていた。




