第52段階:炎王、立つ
突如として鳴り響いた、魔導宮全域を揺るがす重く低い警報音。
その凄まじい轟音が空気を震わせる中、ルシウスは一瞬で魔導王としての冷徹な顔へ戻り、短く、しかし絶対的な指示を飛ばした。
「各自、担当区域へ」
その一言に、魔導宮の使用人たちは誰一人として慌てることなく、一斉に動いた。
「了解」
短い返答。そこには、何百年という途方もない時間を共に戦い抜いてきた、盤石の連携と信頼があった。
ルシウスは怯えた表情で自分を見上げるフェイへ静かに手を差し伸べた。
「来い」
フェイは迷うことなく、その大きな手を握る。
「カシアン」
「はい」
「結界管理室へ向かう」
一瞬だけフェイを見て続けた。
「……フェイも一緒だ」
三人は足早に中枢である結界管理室へ向かった。
結界管理室。
カシアンは、壁一面に巨大な魔導盤を展開し、目にも留まらぬ速さで術式を弾きながら全方位へ指示を飛ばす。
北、南、東、西。そして地下と上空。
押し寄せる敵の人数、属性、魔力量、侵攻速度を瞬時に分析し、味方の配置を秒単位で組み替えていく。
「北門。水属性魔導師部隊、二十」
カシアンの冷徹な声が、通信魔法を通じて厨房へと届く。
「厨房方面へ向かっています」
『……なるほど』
通信の向こうで、太く低い声が返る。
『俺を消火しに来たか』
厨房。
巨大な大鍋では、昼食用のシチューがことことと音を立てて煮えていた。
料理長ガロンは、白い料理服のまま静かに火を止めた。
そして、首から下げていたエプロンをゆっくりと外し、厨房の壁に掛けられた数ある包丁の中から、最も使い込まれた一本だけを手に取る。
それは料理人にとっての包丁であり、同時に彼の魔導器でもあった。
「飯はあとだ」
静かに呟いた、その瞬間だった。
ドガァァァァンッ!!
分厚い厨房の石壁が、外からの巨大な水魔法によって木端微塵に吹き飛ばされた。
瓦礫の砂埃が舞う中、姿を現したのは、各国がこの日のために選び抜いた世界屈指の水属性魔導師たちによる特殊部隊だった。
部隊の先頭に立つ隊長が、冷たい水気を纏った杖を突きつけて宣言する。
「炎の大魔導師ガロン。……討ち取る」
「威勢がいいな、若造」
ガロンは包丁を片手に、歴戦の猛者としての笑みを浮かべた。
しかし、今回の敵はこれまでの密偵とは次元が違った。
相手は、炎の大魔導師であるガロンを仕留めるためだけに編成され、徹底的な「火対策」を積んできた精鋭中の精鋭だったのだ。
部隊が陣形を組み、一斉に無詠唱で術式を展開する。
厨房の周囲に展開される巨大水壁。
炎が燃え上がる端から熱を奪う蒸気封じ。
燃焼そのものを不可能にする酸素制御。
さらには、魔法陣で構築された火炎吸収結界。
完璧な対火属性の布陣。
ガロンが放った牽制の炎は、燃え広がる前に吸収され、あるいは蒸気となって霧散していく。厨房内の炎が、次々と消し飛ばされていった。
「これで終わりだ」
隊長が勝利を確信し、冷酷に言い放つ。
無敵を誇る魔導宮の料理長が、完全に封じ込められた。
誰もがそう思った、次の瞬間。
ガロンは、豪快に笑った。
「……料理人を舐めるなよ」
ガロンが、厨房の要である巨大な竈へドスンと大きな手を置いた。
その瞬間。
ガロンが竈へ手を置いた瞬間、魔導宮地下を巡る灼熱の火脈と、生命の樹から溢れる魔力が一斉に呼応した。
厨房そのものが、彼の魔力炉となる。
ゴォォォォォォッ!!
ガロンの周囲に、水壁を蒸発させるほどの巨大な炎が渦巻く。
彼の双眸が、灼熱を宿した黄金色へと変色した。
「なっ……魔力量が、跳ね上がった……!?」
隊長が初めて顔を歪め、後ずさる。
ここから先は、最高峰同士の死闘だった。
次々と放たれる極大魔法。
一軒家を飲み込む津波。
鋼鉄を貫く水槍。
空間そのものを凍てつかせる氷結魔法。
それらすべてを、ガロンは黄金の炎で真っ向から相殺していく。
相剋する水と炎がぶつかり合い、厨房は凄まじい水蒸気爆発によって半壊していく。
ドシャァァァンッ!
激しい衝撃波により、火から下ろしていた大鍋が吹き飛び、床一面にシチューがぶちまけられた。
「…………今日の昼飯」
床に散乱したシチューを見て、ガロンの額に、今日初めて青筋が浮かんだ。
「許さん」
結界管理室。
カシアンは、激化する戦況を魔導盤で見下ろしながら、瞬きすら忘れたかのように次々と指示を出し続けていた。
「南門劣勢。ゼフィール、援護へ向かえ」
「地下侵入を確認。ローデン、対応を」
「東門。アルヴィン到着まで二十秒。それまで結界を第一段階へ絞り耐久」
侵入者が結界管理室へ近付いた瞬間、カシアンは片手で新たな術式を描いた。
結界の一部が刃となって敵を切り裂く。
彼は視線すら向けず、再び魔導盤へ意識を戻した。
再び、半壊した厨房。
「消し炭にしてやる……!!」
ガロンが包丁を天へ掲げ、巨大火炎魔法を展開する。
凝縮された超高温の炎が、巨大な竜の姿をとって厨房の天井を突き破り、咆哮を上げた。
「総員、最大防御! そして撃てぇっ!!」
対する水魔導師たちも、己の命を削るような全力の詠唱で究極の水魔術を展開する。
黄金の炎竜と、世界最高峰の水の激流。
相反する極大のエネルギーが、真正面から激突した。
ドゴォォォォォォォォォッ!!!
鼓膜を破るほどの轟音。
厨房全体、いや、魔導宮の北側全域が、すべてを飲み込むような目眩く光の奔流に包まれた。
勝敗の行方は、その光の向こう側で誰にも見えない。
世界中が、本気だった。
人類の叡智と武力を結集し、魔導宮という侵せぬ城へ牙を剥いた。
そして魔導宮もまた、本気でそれを迎え撃っていた。
しかし、誰もまだ気付いていない。
この激戦そのものが、敵にとっては真の目的は、この戦場にはなかった。
彼らが欲しかったのは勝利ではない。
魔導宮が、この戦いに意識を奪われている時間だった。




