第53段階:水龍、牙を剥く
結界管理室。
壁一面に展開された魔導盤は、赤く染まったまま明滅を繰り返している。
カシアンは無数の戦況を同時に処理し、冷徹に分析を続けていた。
魔導盤の北側では、料理長ガロンと世界屈指の水魔導師部隊による激戦が依然として続いている。
その時だった。
魔導盤の南側に、ひと際大きく、濃い赤色の反応が複数現れた。
「南門」
「水路ルート」
「敵、水属性魔導師三十名……『水竜騎士団』か」
各国の王族さえも畏怖する、世界最高峰の魔導師で構成された特殊部隊。
その名を確認し、カシアンは僅かに眉を寄せた。
「本命はこちらですか」
即座に通信魔法を展開する。
「アルヴィン」
『はい』
通信の向こうから、波の音とともに落ち着いた声が返る。
「敵は対水戦を徹底的に想定しています。お気を付けください」
アルヴィンの声には、焦りなど微塵もなかった。
『承知しました』
彼は、穏やかに微笑んでいるようだった。
南門。魔導宮の地下深くを流れる巨大な地下用水路。
冷たく暗い地下河川が、轟々と音を立てて流れるその場所が、今回の戦場だった。
アルヴィンは、黒い燕尾服姿のまま、地下水路の石造りの通路に静かに立っていた。
片手には純白の手袋。もう片方には、銀色に輝く懐中時計。
その立ち姿は、これから血で血を洗う死闘が始まるとは到底思えない。
まるで、夜の晩餐会へ訪れる客人を迎え入れる、完璧な執事のそれだった。
水路の奥から、足音と水の気配が近づいてくる。
現れたのは、青銀のローブを纏った三十名の特殊部隊。世界最高峰の水魔導師だけで編成された「水竜騎士団」だった。
先頭に立つ隊長が、冷ややかな視線をアルヴィンへ向ける。
「水王アルヴィン」
「今日、その神話を終わらせる」
彼らは、ただの実力者ではない。事前にアルヴィンの戦闘記録を徹底的に研究し尽くしてきた者たちだった。
アルヴィンの得意とする流水操作、敵の動きを封じる拘束術、鋼鉄をも両断する圧縮水刃、そして広範囲を飲み込む巨大津波。
そのすべてに対する最適解となる対策を構築し、さらには、特殊な魔導具を用いて「アルヴィンの魔力から水を切り離す」術式まで準備していた。
アルヴィンは、いつもの柔らかな笑顔を浮かべ、深く一礼した。
「館内への立ち入りは、ご遠慮願います」
「放て!!」
隊長の号令とともに、三十名の精鋭が一斉に魔法を展開した。
地下河川全体が、意思を持ったように激しく暴れ狂う。
巨大な津波が通路を飲み込もうと迫り、うねる水龍が牙を剥く。
鋭い氷柱の雨が降り注ぎ、分厚い石壁を容易く貫通する超高圧の水槍が次々と放たれた。
アルヴィンも、即座に迎撃の術式を展開する。
しかし、今回はこれまでとは全く違っていた。
敵は、「水」という属性を知り尽くしている。
アルヴィンが放った流水は、逆位相の波をぶつけられて相殺される。
敵を捕らえようとした水の拘束は、瞬時に凍結され、自らの魔力で破壊される。
放った不可視の圧縮水刃も、幾重にも張られた軟水の防御膜に威力を殺され、防ぎ切られてしまった。
一進一退の攻防の中、ついに敵の布陣が完成する。
三十名の魔導師たちが一斉に呪を唱え、特殊魔導具を起動させた。
「封水結界、起動!」
瞬間。
アルヴィンの周囲から、一切の「水」が消え去った。
空気中の微細な水分すらも弾き出され、彼の魔力が水へ干渉する経路が完全に遮断されたのだ。
初めて。
アルヴィンの端正な顔から、いつもの柔らかな笑みが消えた。
隊長は、初めて勝機を見た。
「終わりだ、水王」
しかし。
水の一滴すら操れなくなったはずのアルヴィンは、静かに銀の懐中時計を閉じた。
カチャリ、という硬質な音が、地下水路に響く。
「……そうですか」
アルヴィンは、白手袋の指先で燕尾服のシワを優雅に直すと、真っ直ぐに隊長を見据えた。
「では。
少々、無作法をお許しください」
その瞬間だった。
アルヴィンの魔力が水へ届いていないにもかかわらず、巨大な地下河川全体が、まるで一つの巨大な生物の心臓のように
ドクン。
ドクン。
ドクン。
と大きく脈動した。
「なっ……!?」
隊長が目を見開く。
「馬鹿な! 水の操作は完全に封じたはずだ!」
アルヴィンは、静かに目を開いた。
その瞳には、凍てつくような冷たさが宿っている。
「皆様。
大きな勘違いを、なさっています」
水路が、空間そのものが震え始める。
「皆様、大きな勘違いをなさっています。
私が支配しているのは、水という属性ではありません。」
「水という"現象"そのものです。」
地下河川全体が、地鳴りのような音を立てて震える。
轟々と流れる川。
地下水脈。地上に降り積もる雪。
そして、空間を満たす空気中の水蒸気。
魔導宮全域のあらゆる場所から、水という水が、アルヴィンの意志一つに応えるように異常な密度で集まり始めていた。
それは操作などという生易しいものではない。絶対的な「支配」だった。
「…水龍顕現」
集束する莫大なエネルギー。
その圧力に押され、三十名の精鋭魔導師たちが一斉に後ずさる。
凝縮された水の塊の中から、巨大な龍の輪郭だけが、暗い地下水路の闇の中でゆっくりと浮かび上がった。
「ばか、な……」
隊長が、人生で初めて、純粋な恐怖の表情を浮かべて後退った。
執事とは、主人に仕える者である。
しかし、その絶対的な忠誠は、決して彼らが弱いことを意味しない。
静かなる水は、ひとたび怒りを宿した時、あらゆるものを飲み込み、砕き割る狂気の濁流となる。
地下河川の闇を裂き、一頭の"龍"が、ゆっくりと瞳を開いた。




