第51段階:崩れ始める午後
午後三時。
魔導宮に、いつものティータイムが訪れた。
今日はフェイの提案で、執務室ではなく中庭にあるテラスにテーブルが用意されていた。
陽光を受けた雪がきらきらと輝き、生命の樹だけが鮮やかな緑を湛えている。
花壇には色とりどりの花が咲き誇り、どこからかやってきた小鳥たちのさえずりがBGMのように響く、ひどく穏やかな午後だった。
真っ白なクロスが掛けられたテーブルを挟み、フェイとルシウスは向かい合って座っていた。
傍らでは、カシアンが流れるような所作で香り高い紅茶を淹れ、エマが目にも鮮やかな焼き菓子やケーキを三段のスタンドへ並べていく。
他の使用人たちも、少し離れた場所からその様子を温かく見守っていた。
しかし、あの日から、いつもと違う、甘く緊張した空気が漂っていた。
フェイは、あの華やかな祝賀会の夜から、昨日よりもさらにルシウスを意識してしまっていた。
ふとした瞬間に目が合うだけで、鼓動が跳ね、頬が熱くなる。
ただ向かい合って紅茶を飲むという日常の動作でさえ、ひどく緊張してしまい、カップを持つ手が少しだけ震えそうになる。
一方のルシウスもまた、同じだった。
片手に読みかけの魔導書を開いてはいるものの、その内容は全く頭に入ってこない。
フェイが嬉しそうにお菓子を頬張り、ふわりと笑うたびに、無意識のうちに視線が彼女の方へと吸い寄せられてしまうのだ。
二人とも、相手のことが好きでたまらない。
それなのに、その感情をどう言葉にしていいか分からず、誰も何も言えないまま、ただ初々しくもどかしい時間が流れていた。
その時だった。
フェイが、エマの焼いたクリームたっぷりの小さなお菓子をぱくりと頬張った。
「おいしい……」
幸せそうに目を細めるフェイ。しかし、その無邪気な動きのせいで、彼女の柔らかな唇の端に、ほんの少しだけ白いクリームが付いてしまっていた。
本人は全く気付いていない。
それを見ていたルシウスが、本を置き、静かに口を開いた。
「……動くな」
「?」
フェイが不思議そうに小首を傾げる。
ルシウスは、ごく自然な動作でテーブル越しに長い右手を伸ばした。
そして、フェイの白い頬にそっと手を添え、親指の腹で、口元についたクリームを優しく、拭い取った。
一瞬。
二人の距離が、極端に近付いた。
ルシウスの指先の熱と、彼から漂う微かな香りに包まれ、フェイは一瞬で顔を真っ赤に染め上げた。
トクトクと、自分の心臓が耳元で大きく鳴っているのが分かる。
ルシウスもまた、その柔らかな肌の感触に内心で大きく動揺していた。
しかし、何百年もポーカーフェイスを貫いてきた魔導王は、その激しい動悸を微塵も表には出さない。
クリームを拭い取った後。
ほんの一瞬だけ、至近距離で二人の視線が絡み合った。
風の音さえ消えたような、静かな沈黙。
「あ……」
先に耐えられなくなったのは、フェイだった。
真っ赤になった顔を隠すように、慌てて視線を膝元へと落として俯く。
ルシウスもまた、微かに喉仏を動かし、小さく視線を逸らして自分の手元へと視線を戻した。
少し離れた場所。
庭の木陰や回廊の柱の影から、その一部始終を見届けていたエマ、カシアン、ガロン、アルヴィン、ゼフィール、ローデン。
魔導宮を支える世界最強の魔導師たちは、全員が一つになって内心で叫んでいた。
エマ
(お嬢様、あと少し勇気を……)
ガロン
(押せぇぇぇ!そこで押し切るんだ閣下!)
カシアン
(惜しい。)
ゼフィール
(本より難しいですね。)
ローデン
(花は咲くのに恋は咲かんな。)
もどかしさに拳を握りしめる使用人たちの足元で。
黒猫のノアだけが、呆れ果てたように大きくため息を吐き、心の中で毒づいていた。
(……遅い)
和やかで、甘く、平和な午後。
この穏やかな時間がいつまでも続くのだと、誰もが信じて疑わなかった。
――その時だった。
ゴォォン……ッ!!
突然、魔導宮全域を覆う不可視の結界が、空間ごと歪むほどに大きく震えた。
これまでの一時的な侵入者たちの時とは比べ物にならない、空気を震わせるほどの衝撃。
低く、腹の底に響くような重い警報音が、魔導宮全体へ鳴り響いた。
一瞬にして、テラスの空気が凍りつく。
ルシウスの瞳から微かな戸惑いが消え去り、一瞬で冷徹な「魔導王」の顔へと戻った。
フェイも、不安に駆られてガタッと椅子から立ち上がる。
カシアンは胸ポケットから手帳を閉じると、同時に空中へ複数の通信魔法陣を展開した。
空中に浮かび上がった光の盤面は、異常事態を示す真っ赤な光に染まりきっていた。
カシアンの目が、鋭く細められる。
普段の、各国の密偵が散発的に仕掛けてくる侵入とは次元が違う。
北。南。東。西。
地下。そして、上空。
魔導宮を包囲する全方位から、複数の反応が同時に、かつ凄まじい速度で接近している。その数は、これまでの歴史上でも間違いなく最多だった。
カシアンが、冷や汗一つ流さず、しかし極めて深刻な声で短く告げた。
「……大規模侵入です」
その報告を聞き、魔導宮全体が即座に「戦闘態勢」へと移行した。
厨房の様子を見に戻ろうとしていた料理長ガロンは、足を止め、その巨体に揺らめく炎を纏う。
執事長アルヴィンは、燕尾服の裾を翻し、水の刃を指先に踊らせながら静かに歩き出す。
司書ゼフィールは、読んでいた本をパタンと閉じ、周囲にカマイタチのような烈風を渦巻かせた。
庭師ローデンはジョウロを静かに地面へ置き、足元の土を脈動させる。
召使エマは、柔らかな笑顔を張り付けたまま、その全身から青白い雷の火花をバチバチと弾けさせた。
それぞれが、一切の無駄なく自身の防衛担当区画へと向かう。
誰一人として慌てる者はいない。
まるで、毎日の掃除や料理という日常業務をこなすかのように、極めて自然に、しかし絶対的な殺意を持って。
けたたましい警報音が鳴り響く中。
ルシウスは、不安げに見上げてくるフェイを見つめ、低く通る声で命じた。
「……私から離れるな」
フェイは、その声に込められた絶対的な庇護の意志を感じ取り、ぎゅっと両手を握りしめて頷いた。
「……うん。」
その瞬間。
魔導宮を覆う結界のさらに外側から、大地を揺るがすほどの凄まじい轟音が響き渡った。
ルシウスが視線を向ける。
地平線の彼方、一面の草原の向こうに。
うごめくような無数の黒い影――完全武装した軍勢と、鎖に繋がれた巨大な魔物たちの姿が、黒い津波のように姿を現した。
嵐の前の静けさは、完全に破られた。
魔導宮を落とすことが目的ではない。
狙いは、ただ一人。
その事実を、この時まだ誰も知らなかった。




