第49段階:静寂の前兆
魔導宮の朝は、久方ぶりに穏やかだった。
昨日まで連日のように押し寄せていた各国の密偵や暗殺者たちは、今日は一人として姿を見せない。
中庭の温室では、フェイが鼻歌を交じりながら安心して庭仕事をしていた。
彼女の足元では子猫たちがじゃれ合い、平和な朝の日差しがガラス屋根から降り注いでいる。
「おはよう、エマ」
「おはようございます、お嬢様。今朝はとても良いお天気ですね」
エマたち侍女も、久しぶりに本来の仕事へ戻っていた。
厨房では、煙突からの奇襲を警戒する必要がなくなった料理長ガロンが、鼻歌交じりに大鍋でシチューを煮込んでいる。
裏庭では、庭師ローデンが土の罠を張ることなく、純粋に花壇の土壌作りに汗を流し。
図書館では、司書ゼフィールが窓を閉めきり、静かな空間で古書の修復作業に没頭していた。
誰もが、すれ違うたびに同じ言葉を交わし合っていた。
「今日は静かですね」
「ええ、本当に」
平和を喜ぶ使用人たちの間で、魔導宮には久しぶりのゆったりとした時間が流れていた。
結界管理室。
薄暗い部屋の壁一面に展開された魔導盤の前に立ち、カシアンは静かに結界の波形を確認していた。
昨日までは、魔導盤のどこかしらが常に赤く点滅し、外敵の接近を知らせていた。
しかし、今日は違う。
朝。異常なし。
昼。異常なし。
夕方。異常なし。
波形は凪いだ水面のように平坦なままだった。
風に舞う木の葉が一枚、結界の表面に触れただけの微細な反応を除けば、人や魔物の接近を示す痕跡はただの一つもなかった。
カシアンは手帳を閉じ、静かに管理室を後にすると、主の待つ執務室へと向かった。
コンコン、と扉を叩いて入室する。
「閣下」
窓際の執務机で書類に目を通していたルシウスが、視線だけを動かした。
「侵入が、完全に止まりました」
カシアンの報告に、ルシウスは書類から顔を上げる。
「……そうか」
短い沈黙が降りた。
ルシウスは手元の万年筆を置き、少しの間だけ虚空を見つめ、やがて静かに呟いた。
「……妙だな」
カシアンも、深く同意するように頷く。
「私も同感です。昨日までの苛烈な調査の手が、こうも不自然に途絶えるとは。……我々の防衛力の前に、ついに諦めたのでしょうか」
常識的に考えれば、魔導宮の恐ろしさを悟り、強行偵察を断念したと考えるのが自然だった。
しかし、ルシウスはゆっくりと首を横へ振った。
「違う」
ルシウスの紫水晶の瞳が、静かに、しかし鋭く細められる。
「大きく動く前ほど、静かになる。」
その一言で、平和の空気に包まれていたはずの執務室に、冷たい緊張が走った。
諦めたのではない。
静かになった。
それが、ルシウスには何より不気味だった。
夜。
魔導宮は、深い闇と静寂に包まれていた。
結界は依然として静かなままで、誰も来ない。
温室のガラス屋根の上。
冷たい月明かりを浴びながら、黒猫のノアが細い尻尾を揺らして呟いた。
「……嫌な静けさだ」
理屈ではない勘が、遠く離れた場所で蠢く不穏な気配を捉えている。
同じ頃。
執務室の窓辺に立つルシウスは、暗闇に沈む外界の雪原を静かに見つめ続けていた。
証拠など何もない。
それでも、何かが水面下で確実に動いている。その絶対的な確信だけが、彼の胸の奥で警鐘を鳴らし続けていた。
嵐は、突然始まるものではない。
その前には必ず、
不自然なほど静かな時間が訪れる。
魔導宮は、
その静寂を見逃さなかった。




