第48段階:侵せぬ城
朝。
魔導宮の中庭にある温室には、柔らかな朝日が差し込んでいた。
フェイは、少し頬を赤らめながら、花壇の植物へ丁寧に水をあげている。
ルシウスは、そこから少し離れたベンチに腰を下ろし、静かに本を読んでいた。
祝賀会の夜以来、二人はどうしても互いを意識してしまい、少しだけぎこちない空気を漂わせていた。
フェイはルシウスと目が合うだけで、あわてて視線を逸らし、耳まで赤くしてしまう。
一方のルシウスも、本に視線を落としているふりをしながら、以前より明らかにフェイから視線を逸らす回数が増えていた。
会話自体は、普通だ。
「その花は、もう咲くのか」
「うん、明日には咲くと思う」
しかし、その間に流れる空気だけが、春の陽だまりのように甘く、むず痒いものへと変わっていた。
日向ぼっこをしていた黒猫のノアは、その初々しすぎる二人の様子を薄目で見て、心の底から呆れていた。
(……両方とも、遅い)
そんな、ひどく平和で穏やかな朝。
突如として、魔導宮全体を覆う不可視の警報結界が、微かな波紋となって反応した。
結界管理室。
壁一面に浮かび上がる魔導盤の前に立つカシアンは、手帳を開くこともなく静かに結界の反応を確認した。
「北側結界。侵入者一名」
口元に通信魔法を展開し、短く告げる。
「ガロン」
『了解』
通信の向こうから、野太い声が返る。
厨房。
巨大な煙突の内部を、音もなく降りてくる黒装束の侵入者がいた。
当代最高峰の隠密魔法を展開し、完璧な潜入を確信して厨房の暖炉へ降り立とうとした、その瞬間。
料理長ガロンは、朝食のスープが入った巨大な鍋をレードルでかき混ぜながら、振り返りもせずに一言放った。
「厨房へ土足とは」
パチン、と。
空いた手で軽く指を鳴らす。
ドォォォォンッ!
巨大な炎が、暖炉から煙突の内部だけを逆流して駆け上がった。
「ぎゃあぁぁぁぁっ!?」
煙突の頂上から、侵入者が黒焦げになって青空へ吹き飛ばされていく。
『終了しました。……あ、お玉落とした』
通信越しに聞こえる声に焦燥はない。ガロンが煮込んでいたスープの鍋は、一切焦げることなく完璧な温度を保っていた。
カシアンは魔導盤へ視線を戻す。
「南側。侵入者二名。アルヴィン」
『承知しました』
魔導宮へ繋がる地下用水路。
冷たい水の中に身を潜め、呼吸を殺して侵入を試みる二つの影。
しかし、水路の出口に静かに立っていた執事長アルヴィンは、懐中時計を確認して一礼した。
「館内への立ち入りはご遠慮ください」
次の瞬間。
穏やかだった用水路の水が一瞬にして意思を持った巨大な渦となり、侵入者二名だけを正確に包み込んだ。
「なっ、息が……っ!」
渦は二人の自由を完全に奪ったまま、まるで不要な落ち葉を払いのけるように、魔導宮の外の雪原へと勢いよく放り出した。
『終了しました』
アルヴィンの燕尾服には、水滴一つ跳ねていない。
裏庭。
庭師ローデン(土属性)は、愛用のジョウロで花壇へ水を撒いていた。
その足元、地中深くから、土魔法で地面を潜って魔導宮へ侵入しようとする気配が近づいてくる。
ローデンは、ジョウロを傾けたままぼやいた。
「……根を傷める」
トン、と。
ローデンが軽く地面を踏み鳴らす。
ズガァァァンッ!
地面が突如として巨大な岩壁に変化し、地中を潜っていた侵入者を容赦なく飲み込み、首だけを出した状態で完全に拘束した。
『終了』
ローデンは通信に短く返し、何事もなかったように水撒きを続けた。
「上空より一名。ゼフィール」
図書館の上空。
司書ゼフィール(風属性)は、窓辺で古書を読みながら空を見上げた。
隠密魔法を纏い、空から滑空して魔導宮へ飛び込もうとする曲芸じみた侵入者。
ゼフィールは、表情を変えることなく言った。
「館内では静粛に」
パタン、と本を閉じる。
それと同時に、猛烈な一陣の風が上空を薙ぎ払った。
「うわぁぁぁぁっ!」
侵入者だけが木の葉のように吹き飛ばされ、魔導宮の結界のはるか外まで運ばれていく。
開け放たれた窓の側にあった本は、ただの一冊も、ただの一ページも風に煽られることはなかった。
正門。
行商人を見事に変装で模した侵入者が、堂々と突破を試みていた。
それを出迎えた召使エマ(雷属性)は、いつものように柔らかな笑顔を浮かべた。
「失礼します」
エマが指先から放った極小の雷が、ピシャッと侵入者の額を撃ち抜く。
ダメージは最小限。しかし、変装魔法の術式だけを正確にショートさせ、黒装束の正体が完全に露見した。
侵入者は白目を剥き、そのまま地面へ崩れ落ちて気絶する。
『お帰りはこちらです』
エマは、気絶した男の襟首を掴み、笑顔のまま結界の外へ引きずっていった。
再び、温室。
窓の外で次々と空へ吹き飛んでいく黒い影を見て、フェイは目を丸くしていた。
「みんな、強すぎる……
でも。ルシ、助けに行かなくていいの?」
「必要ない」
その返答通り、数分後にはすべての警報が消えた。
本から顔を上げたルシウスは、平然と答える。
「普通だ」
「普通じゃないよ! 今、人がお空飛んでたよ!?」
その時だった。
ベンチで丸くなっていたノアが、呆れたように口を開いた。
「当然だ」
フェイの動きが、ピタリと固まる。
そして、ギギギ……と錆びた機械のように、ゆっくりと振り返った。
「……え?」
ノアは、毛繕いをしながら普通に続ける。
「あの化け物の巣窟である魔導宮へ喧嘩を売る方がおかしいのだ」
フェイの顔が、驚愕で真っ白になる。
「ね……猫が喋ったぁぁぁぁ!?」
大パニックに陥るフェイを見て、ノアは深い深いため息を吐いた。
「……遅い」
「え!? なんで!? いつから喋れたの!?」
目を回すフェイに対し、ノアは優雅にお座りの姿勢になり、静かに頭を下げた。
「申し遅れました。私はノアと申します。フェイ様のお供として、お側にお仕えしております。」
フェイに対してだけは、極めて流暢で丁寧な敬語だった。
「えぇぇぇぇぇ!?」
フェイが信じられないものを見る目でルシウスを振り返る。
ルシウスは、平然とページをめくりながら言った。
「言ってなかったか」
「聞いてないよ!!」
ノアは、フェイへの丁寧な態度から一転、ルシウスへ向けて黄金の瞳を鋭く細めた。
「……守れよ」
ルシウスは、視線を本に向けたまま短く返す。
「分かっている」
何故か意思疎通ができている一人と一匹のいつものやり取りに、フェイだけが完全に置いてけぼりにされていた。
魔導宮のはるか外の雪原。
命からがら結界の外へ放り出され、撃退された各国の侵入者たちは、満身創痍のまま雪の上に倒れ伏し、全員が同じことを口にしていた。
「……無理だ」
「なんだあそこは……化け物しかいない……」
「魔導宮は、攻める場所じゃない……」
世界中から精鋭が送り込まれたにもかかわらず、誰一人として、魔導宮の建物の奥へすら辿り着けなかった。
世界は、静かに魔導宮を試し始めた。
しかし、その手はまだ誰一人として彼女に届かない。
魔導宮とは、一人の魔導王が守る城ではない。
鍋を振るう料理長も
花を育てる庭師も
本を守る司書も
廊下を磨く召使も
誰もが世界最高峰の魔導師である。
それが、この世界で最も侵すことのできない城だった。




