第46段階:深淵への誘い
王立魔導研究院。
その地下深くに位置する禁書庫へ、青年魔導師は取り憑かれたように通い続けていた。
あの日以来、彼の頭から決して離れない言葉がある。
『僕に会えばわかるよ。』
鈴の音のように穏やかで、優しく、どこか安心感すら覚えるその声。
仕事にも研究にも全く手がつかなくなっていた。眠りにつけば夢の中にあの声が響き、目を覚ましても耳の奥に心地よい残響がへばりついている。
食事の量も極端に減り、青年の頬は痩せこけ、目の下には濃い隈が刻まれていた。
「おい、大丈夫か? 最近ひどく顔色が悪いぞ」
すれ違った同僚の魔導師から心配の声をかけられることも増えた。
しかし、青年はいつも「少し研究に没頭しているだけだ」と笑って誤魔化していた。
周囲からは疲労による幻聴だと思われているかもしれない。だが、青年の内心は違った。
(あれは、決して幻などではない)
彼の中には、もはや揺るぎようのない確信があった。自分は確かに「何か」に触れたのだ、と。
青年は、声の主を探し出すため、世界中から集められたあらゆる古文書を調べ漁った。
いにしえの封印。
歴史から失われた祭殿。
世界樹が芽吹く以前の古代遺跡。
禁忌とされた魔法の数々。
何百冊という書物を読み解き、埃まみれになっても、答えは一向に出ない。
徒労に終わる日々が続く中、青年がふと手に取った一冊の分厚い禁書から、
ぱさり、と。
一枚の古い羊皮紙が滑り落ちた。
それは、研究院のどの目録にも記録されていない、極めて古い時代の地図だった。
青年は震える手でそれを拾い上げる。
地図の中心、世界最北端に位置する、一年中猛吹雪に閉ざされた誰も近付かない山岳地帯。そこに、赤黒い染料で小さな印が付けられていた。
赤黒い印を見つめた瞬間、耳の奥で、あの鈴のような声が微かに笑った。
青年は、その瞬間に確信した。
「……ここだ」
数日後。
青年は誰にも行き先を告げることなく、一人で研究院を後にした。
目指すは極北の雪山。
容赦なく吹き荒れる吹雪が体温を奪い、飢えた魔物たちが暗闇から襲い掛かる。
さらに、古の時代から何重にも張り巡らされた複雑な結界が、侵入者の行く手を阻んだ。
過酷な旅の中で、青年は何度も命を落としかけた。
しかし、不思議なことに、彼が進むべき道を見失うことは一度もなかった。
吹雪で視界が閉ざされても、結界の迷路に迷い込んでも、まるで誰かがそっと手を引き、安全な道へと導いてくれているかのようだった。
凍える雪道の中で倒れそうになるたび、頭の中にあの声が響く。
『もう少し。』
『あと少しだから。』
それは命令でも、脅迫でもない。
暗闇の中で怯える子どもを慰めるような、どこまでも優しく温かい励ましだった。
青年は、その声が与える深い安心感だけを頼りに、重い足を前へと踏み出し続けた。
やがて青年は、雪山の地中深くに隠されていた、巨大な地下遺跡の最奥へと辿り着いた。
何千年も、あるいはもっと長い間、誰一人として足を踏み入れていない忘却の空間。
巨大な石室の中心には、空間を縛り付けるように無数の太い鎖が張り巡らされていた。
床一面に描かれているのは、青年が見たこともないほど複雑で巨大な魔法陣。
そして、その中央の台座には、一冊の『黒い本』が静かに置かれている。
青年は息を呑んだ。
周囲には誰もいない。
聞こえるのは、自分の荒い呼吸だけ。
それ以外のすべては、張り詰めた静寂に沈んでいた。
その時。
青年の頭の中へ、聞き覚えのあるあの優しい声が響いた。
『来てくれた。』
声は、待ちわびた友人と再会したかのように、少し嬉しそうに笑った。
『ありがとう。』
極度の緊張と寒さで震えながら、青年は乾いた唇を開いた。
「……お前は、誰だ」
しばらくの間、沈黙が落ちる。
遺跡の空気が、ふわりと柔らかく揺れた。
『今は、名前なんてどうでもいいでしょう?』
『君は僕に会いに来てくれた。それだけで十分だよ』
声は、青年を優しく包み込むように囁く。
『君なら、僕を助けられる。』
その甘く心地よい響きに導かれるように、青年はふらふらと一歩、魔法陣の中心へと近付いた。
恐怖はあった。
だが、それ以上に、自分を必要としてくれる声に応えたいという欲求が勝っていた。
青年は、目の前の黒い本――封印の中心へと、ゆっくり右手を伸ばした。
指先と革表紙の間に残された距離は、もはやわずかだった。
『大丈夫』
声が、耳元で微笑む。
『君ならできるよ』
青年の指先が、さらに近付く。
あと、ほんの少し。
人は未知を恐れる。
けれど同時に、答えを知りたいという欲望には抗えない。
その日、一人の青年は、世界を変える扉へ、自らの意志で手を伸ばした。




