第45段階:この感情の名前
華やかな祝賀会から帰宅した夜。
フェイは、柔らかいベッドへ入っても、一向に眠りにつくことができなかった。
目を閉じても、瞼の裏に浮かんでくるのは今日一日の出来事ばかりだ。
夜空のようなミッドナイトブルーのドレス。
自分に向けられた、世界中から向けられた、好奇心と賞賛の入り混じる視線。
そして何より――あのドレス姿を見た瞬間、ルシウスが微動だにしなくなってしまった時のこと。
『…………似合っている』
絞り出すように告げられた、たった一言。
そのわずかに掠れた声が、頭の中で何度も何度も繰り返される。
思い出すたびに、胸の奥がきゅっと苦しくなり、顔が火のように熱くなった。
フェイは枕へ顔を深く埋め、恥ずかしさのあまりベッドの上で何度も寝返りを打つ。
「どうしよう……
ルシのことばっかり、考えちゃう……」
エマから教えてもらった「恋」という言葉が、すとんと胸の奥に落ちてくる。
フェイは、仰向けになって静かに自分の胸へ手を当てた。
トクトクと、少しだけ早い鼓動が手のひらに伝わってくる。
「私……やっぱり、ルシが好きなんだ……」
誰かを大切に想う気持ち。
嬉しい。恥ずかしい。でも、ほんの少しだけ苦しくて、切ない。
そんな甘く、少しだけ切ない気持ちを抱えながら、フェイは何度も、あの時のルシウスの表情を思い返し、夜更けになってようやく浅い眠りについた。
一方その頃。
ルシウスもまた、全く眠れていなかった。
静まり返った執務室で、彼は机に向かい本を開いていた。
しかし、活字の羅列をいくら目で追っても、文字が少しも頭の中へ入ってこない。
ふとした瞬間に脳裏を過るのは、フェイの無邪気な笑顔ばかりだ。
美しく着飾ったフェイのドレス姿。
そして、祝賀会で他の男へ向けられていた、あの屈託のない笑顔。
ページをめくる手が止まる。
何度も同じ光景が頭を巡り、そのたびに胸の奥底が奇妙な熱を帯びてざわつく。
かつて神々を討ち果たし、世界を滅ぼした最強の魔導王は、たった一人の少女の残像に翻弄されながら、ただ眠れない夜が更けていくのを待つことしかできなかった。
翌朝。
魔導宮の食堂には、朝食の温かな香りが漂っていた。
席に着いたフェイは、今にもこっくりと船を漕ぎ始めそうなほど眠そうにしていた。
その白い肌の目元には、うっすらと隈が浮かんでいる。
給仕をしていたエマが、心配そうに声をかけた。
「お嬢様、昨夜はあまり眠れませんでしたか?」
フェイはハッとして顔を上げ、慌てて両手を振って笑う。
「だ、大丈夫! 全然なんともないよ!」
しかし、その声は少し裏返っており、誤魔化しきれていないのは誰の目にも明らかだった。
そこへ、いつものように黒い執務服を纏ったルシウスが静かに食堂へ入ってきて、定位置の席へ着いた。
ルシウスは、向かいに座るフェイへ視線を向ける。
そして、一瞬でその異変に気付いた。
「……眠れなかったのか」
「えっ?」
フェイは驚いて目を丸くする。
「隈がある」
ズバリと指摘され、フェイは「ひゃっ」と小さく声を上げ、恥ずかしくなって両手で自分の顔を覆い隠してしまった。
その可愛らしい反応に、エマは思わず口元を押さえてくすりと笑う。
ルシウスは、そんなフェイの様子を静かに見つめながら、何気ない様子で言った。
「今日は予定を減らそう。
午後の魔導の勉強は、休みでいい」
フェイは指の隙間から目を丸くしてルシウスを見た。
ルシウス本人は、ごく自然に、ただフェイの体調を慮って言っただけだった。
しかし、壁際に控えていた使用人たちは、一様に目を見開いた。
(閣下が…… ご本人より先にお気付きになった……)
(しかも、即座に予定まで変更なさるとは……)
誰よりも厳格に規律を重んじる主人が、ただ「少し寝不足だから」という理由だけで、あっさりと予定を変更した。
誰よりも先に、そして誰よりも深く、フェイの些細な体調の変化に気付いている。
その事実が、ルシウスの中でフェイという存在がいかに大きくなっているかを物語っていた。
昼。
執務室。
カシアンが、決裁の必要な書類を抱えて入室してきた。
しかし、執務机に座るルシウスのペンは止まっており、彼は珍しく深い考え事に没頭しているようだった。
「閣下?」
呼びかけても、返事がない。
カシアンがもう一度「閣下」と少し声のトーンを上げて、ようやくルシウスが視線を上げた。
「……どうされたのです? 珍しいですね」
カシアンの問いに、ルシウスは少しの間沈黙し、やがて静かに尋ねた。
「カシアン。……恋とは、どういうものだ」
部屋の空気が、ピタリと止まった。
常に冷静沈着なカシアンも、この予期せぬ問いには一瞬だけ完全に動きを止めた。
しかし、そこは何百年も仕えてきた優秀な副官である。
彼はすぐに完璧な副官の顔へ戻り、表情を崩すことなく答えた。
「……随分と難しいご質問ですね」
カシアンは書類を机に置き、少しだけ天井を見上げて考えた後、穏やかな声で紡いだ。
「そうですね。相手の幸せを、自分のこと以上に願うことでしょうか。
相手の無事を、自分のこと以上に願うこと。
その方が笑っていれば安堵し、苦しんでいれば自分まで痛むこと。
そして時に、自分以外へ向けられた笑顔を、惜しいと感じること。かと」
ルシウスは、黙ってその言葉を聞いていた。
その一つひとつが
昨日からずっと自分の内側で渦巻いていた感情、そのものだったからだ。
夜。
ルシウスは、一人で再び温室を訪れていた。
月明かりの下、静かな風が吹き抜け、巨大な生命の樹の葉がカサカサと心地よい音を立てて揺れる。
昨日まで、どうしても答えの分からなかった己の感情。
カシアンの言葉。
そして、自分を見上げて笑うフェイの顔。
そのすべてが、すとんと一つへ繋がった。
ルシウスは、生命の樹を見上げたまま静かに目を閉じ、小さく、長く息を吐き出した。
「……これが」
少しだけ、間を置く。
「……恋か」
神を殺し、世界を滅ぼし、絶望の中で何百年という途方もない時間を生きてきた男が
長い人生で、初めてその名を知った、胸の奥の温かな感情。
目を開いた彼のその表情は、いつもの冷徹な魔導王のそれではなく、ひどく穏やかで、優しいものだった。
しかし、その想いをフェイ本人へ伝えるつもりは、まだない。
フェイは、光の中で笑うべき存在だった。
神々の血に濡れ、世界を滅ぼした自分が、その隣を望んでよいとは思えない。
今はただ、フェイがこの魔導宮で、自分の側で幸せに笑っていてくれるなら
それだけで十分だと思っていた。
神々を滅ぼした男は、その日ようやく、一人の少女を想う気持ちの名前を知った。
少女もまた、同じ夜、同じ想いを胸に抱いていた。
けれど、その言葉はまだ、どちらの唇からも語られない。
二人の胸で静かに育ってきた想いは、ようやくその名を得た。
あとはただ、花開くための小さな勇気を待つばかりだった。




