第44段階:世界最大の祝宴
アークレイア王国の大広間は、幾千もの魔法の灯りに照らされ、息を呑むほどに眩い光に満ちあふれていた。
世界中の王族、貴族、各国の首脳陣。十年に一度の世界会議以上の規模で集結した人々が、華やかなドレスや絢爛たる正装を纏い、グラスを傾けている。そこは滅びゆく世界の現実を忘れさせるような、世界最大の祝宴の舞台だった。
重厚な大扉が開き、ルシウスとフェイが足を踏み入れた瞬間――。
それまで音楽と談笑に満ちていた会場全体の音が、すっと消え失せた。
ざわめきが波のように広がる。
「あれが……あの少女か」
「世界会議の折、魔導王が『保護下にある』と宣言した……」
「なんと、恐ろしいほどの美しさだ。まるで精霊か何かが迷い込んだようだぞ」
浴びせられる数百人もの視線。
その熱と重圧に、フェイは小さく息を呑み、思わず体がこわばった。
――怖い、わけではない。
けれど、あまりにも眩しすぎる世界に気圧されそうになる。
フェイは無意識に、隣を歩くルシウスの腕へとそっと小さな手を添えた。
自分の存在が迷惑ではないかと不安そうな目を向ける。
しかし、ルシウスは何も言わず、ただ自然に、彼女の歩幅に合わせてゆっくりと歩を進めた。
その不器用な優しさに、フェイの不安はふっと和らいでいく。
だが、問題は周囲だった。
「おお、初めまして。美しきお嬢様。私は近隣諸国の――」
「もしよろしければ、次のダンスを私に――」
若い王子たちや、名だたる貴族の跡継ぎ、自信に満ちた若き騎士たちが、次から次へとフェイへ言い寄ってきた。
彼女の美しさ、そして魔導王の隣に立つことを許された唯一の少女という存在に、人々は強く惹きつけられていた。
フェイは戸惑いながらも、「あの、ありがとうございます……」と、その一つひとつに丁寧に対応しようとする。
その様子を横目で見たルシウスの内部で、何かが静かに、しかし確実に軋んだ。
最初は、何も思っていなかった。
ただの社交辞令だ。分かっている。
だが、別の男がフェイに近付くたび。
フェイの美しい瞳が、自分以外の男に向けられるたび。
その唇が、誰かの言葉に微笑むたび。
ルシウスの胸の奥が、得体の知れない熱と重さでざわついた。
ひどく落ち着かない。呼吸が浅くなる。
(近い)
(……見るな)
(その男に笑顔を向けるな)
(今すぐ、ここから引き剥がして帰りたい)
神々を屠った絶対的な魔導王が、人生で一度も抱いたことのない感情に襲われていた。
それが何という感情なのか、ルシウスには分からない。
ただ、自分でも制御できない執着だけが、冷徹な理性を静かに侵食していた。
ただ、誰にも渡したくないという衝動だけが、冷徹な理性をじわじわと侵食していく。
フェイが困ったようにこちらを振り返った瞬間、ルシウスは無言のまま彼女の背中に手を添え、誰にも触れさせぬよう自分の近くへと引き寄せた。
その瞳に宿った静かな威圧感に気付き、近づこうとしていた男たちは、一様に青ざめてサッと身を引いていった。
夜遅く
魔導宮へと戻った。
慣れない社交界の緊張と華やかさに疲れたのか、フェイは自室へ戻るとベッドに横たわり、すぐにスースーと穏やかな寝息を立てて眠りに落ちていた。
しかし、ルシウスは眠れなかった。
静まり返った執務室を抜け出し、彼は一人で夜の中庭、生命の樹が生い茂る温室へと向かう。
月明かりがガラス屋根を透過し、温室の中に銀色の光の束を落としている。
ルシウスは生命の樹の幹に背中を預け、あの祝宴会場で胸の奥底に渦巻いた「正体不明の熱」について思考を巡らせていた。
──あれは、一体何だったのか。
敵意ではない。怒りでもない。
ただ、胸が締め付けられ、他者へ向けられる彼女の笑顔を許容できないという、説明のつかない執着。
「……分からないな」
誰に聞かせるでもなく、静かに呟いたその時。
カサ、と。
頭上のガラス屋根から、微かな音が響いた。
顔を上げると、そこには一匹の黒猫がいた。
月明かりを背負い、気高く静かにルシウスを見下ろす、ノアだった。
ノアは細い足音を立てて屋根の縁まで歩み寄ると、黄金の瞳でルシウスをまっすぐに見据えた。
そして、あの夜の温室と同じように、人間の言葉を紡いだ。
「……ほらみろ」
ルシウスはわずかに眉を寄せたが、言葉は発しない。
ノアは小さく鼻を鳴らし、呆れたような、あるいは挑発するような口調で続けた。
「今はそこじゃない。……早くしないと、本当に取られるぞ」
ルシウスの紫水晶の瞳が、僅かに揺れた。
「世界中の男が見てた。お前だけじゃない。……分かったか?」
長い、長い沈黙が温室を支配する。
風が生命の樹の葉を揺らし、カサカサと乾いた音を立てた。
ルシウスは、その言葉に対する反論の言葉を、最後まで見つけることができなかった。
自分の中にある感情の正体を突きつけられ、ただ押し黙るしかなかった。
ノアは、満足そうに長い尻尾をゆらりと揺らした。
「せいぜい、遅れをとらないことだね」
それだけ言い残すと、黒猫は軽やかな身のこなしで夜の闇の中へと姿を消していった。
静寂が戻った温室で、ルシウスは一人、夜空を見上げる。
世界は、この日初めて魔導宮の少女を知った。
一人の少女は、自分がどれほど眩しい存在なのかを知らない。
一人の男は、自分の胸に芽生えた感情の名前をまだ知らない。
そして月明かりの下、すべてを見届けた黒猫だけが、小さく目を細めていた。
世界を滅ぼした魔法でさえ届かなかった場所へ、その小さな感情は静かに手を伸ばし始めていた。




