第43段階:世界が見た、魔導宮のお姫様
朝。
世界連合主催、アークレイア王国第一王子成人祝賀会の当日。
常に静寂に包まれていたはずの魔導宮は、朝からかつてないほどの慌ただしさを見せていた。
人生で初めて「正式な社交界」という場へ赴くフェイのために、魔導宮の使用人たちが総出で彼女の支度に取り掛かっていたのだ。
「お嬢様、少しだけ動かないでくださいね」
「うん……」
エマを中心に、侍女たちがフェイを囲むようにして動き回る。
最高級の絹で仕立てられたドレス選び。
透き通るような白金の髪を結い上げる髪型。
ドレスの魅力を引き立てる、しかし派手すぎない上品なアクセサリー。
歩きやすいように魔法で微調整されたガラスのような靴。
そして、彼女の無垢な魅力を損なわない、ほんのりとしたメイク。
すべてを一から、最高の技術で整えていく。
しかし、主役であるフェイ本人は、終始落ち着かない様子でもじもじとしていた。
「ねぇ、エマ……。こんな綺麗なお洋服、本当に私が着ていいの?」
「転ばないかな……」
「ルシの隣に立って、恥ずかしくないかな……」
次から次へと、不安ばかりを口にする。
無理もない。彼女はほんの二年前まで、すべてが死に絶えた灰色の森で、ボロボロの服を着て一人で生き抜いていた少女なのだ。
エマは、フェイの髪に最後の花飾りを挿しながら、鏡越しに優しく微笑んで励ました。
「今日は、世界中の方々がお嬢様をご覧になります。
閣下のお隣に立たれる、ただ一人の特別な方ですもの。
どうか、自信を持ってくださいませ」
その温かい言葉に、フェイは少しだけ照れたように、こくりと頷いた。
「……完成いたしました。
閣下のお召し物と並ばれた時、一番美しく見える色を選びました。」
エマが、ふぅっと満足げな息を吐いて一歩下がる。
姿見の鏡の前に立つ、ドレス姿のフェイ。
それは、言葉を失うほどの幻想的な美しさだった。
夜空に瞬く星を散りばめたような、深いミッドナイトブルーを基調としたドレス。
それは白金の髪を最も美しく映えさせる色として、エマたちが幾日も悩み抜いて選んだ一着だった。
それが彼女のマリンブルーの瞳と、白金の髪の美しさをこの上なく引き立てている。
まるで、神話の世界から抜け出してきた妖精か、あるいは真の王女のようだった。
しかし、本人だけが全くその美しさに自覚がない。
「どう……かな?」
不安そうに振り返るフェイ。
部屋へ集まっていた使用人たちは、全員が息を呑んで固まっていた。
花を持って駆けつけた庭師。
お茶の準備をしていた料理長。
侍女たち。
そして、執事たち。
誰も、言葉が出ない。
やがて、静まり返った部屋の中で、誰かがぽつりと小さく呟いた。
「……綺麗」
その一言が、全員の思いを代弁していた。
エマに至っては、まるで娘を嫁に出す母親のように感極まり、目頭を押さえて静かに涙ぐんでいる。
その時だった。
コンコン。
重厚な扉が叩かれ、静かに開いた。
迎えに来たのは、漆黒の夜のような完璧な礼装に身を包んだ、ルシウスだった。
「……フェイ、準備は」
言いかけて。
フェイが、ゆっくりとルシウスの方へ振り返った。
――瞬間。
ルシウスの中で、時間が完全に止まった。
思考が、停止する。
呼吸すら、忘れる。
思考のすべてが、目の前の少女の姿だけで埋め尽くされていく。
(…………)
(なんだ)
(この感情は)
目が、離せない。
視線を逸らすことなど、物理的に不可能だった。
神々すら打ち倒し、あの無敵の魔導王が。
たった一人の少女のドレス姿を見ただけで、微動だにできず、完全に動きを止めてしまっていた。
胸の奥で、経験したことのないほどの激しい動悸が鳴り響いている。
それが「恋」という感情であることを、ルシウス本人はまだ全く自覚していない。
しかし、その狼狽ぶりは、誰の目から見ても明らかだった。
数秒の、永遠にも似た沈黙。
フェイが、不思議そうに首を傾げた。
「ルシ?」
その声で、ようやくルシウスの意識が現実へと引き戻される。
彼はハッと瞬きをし、必死に平常心を装おうとして、絞り出すように言った。
「…………似合っている」
何百年の時を生きる最強の男が、その一言をひねり出すだけで精一杯だった。
フェイは、ぱぁっと花が咲いたように照れて、嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとう! ルシも、すごくかっこいい!」
その二人のやり取りを見守りながら、部屋の壁際に控えていた使用人たちは、全員が同じことを思っていた。
(閣下が……固まった……!)
(あの魔導王閣下が、見惚れてフリーズなさった……!)
いよいよ出発の時。
フェイがドレスの裾を持ち、緊張した面持ちでルシウスの元へ歩み寄ろうとした、その時だった。
部屋の隅に置かれた豪奢な椅子の背もたれから、一匹の黒猫が軽やかに床へ降り立った。
黄金の瞳を持つ、ノアだった。
ノアはゆっくりとルシウスの足元まで歩み寄ると、見上げるようにしてピタリと止まった。
ルシウスが視線を落とす。
すると。
ノアの口元が微かに動き、ルシウスの脳内へ、直接「声」が響いた。
それは、気品に満ちた大人の女性のような、静かで優しい声だった。
『……見惚れてばかりいないで、手を取って差し上げなさいな。不器用な王様』
ルシウスは、紫水晶の瞳を僅かに見開いた。
しかし、ノアはもう何も言わない。ただ、「早く行け」とでも言うように、しっぽをゆらりと揺らしただけだった。
ルシウスは小さく息を吐き出すと、静かに口元を緩めた。
「……ああ、分かっている」
そして、一歩前へ踏み出し。
世界で一番美しいお姫様へ向かって、ゆっくりと、その大きな右手を差し出した。




