第42段階(幕間):深淵から響く声
とある大国の王都にそびえ立つ、王立魔導研究所。
その地下深く、限られた者しか立ち入ることを許されない「禁書庫」と呼ばれる薄暗い部屋があった。
壁一面を埋め尽くすように、天井まで届く本棚が並び、古びた魔導書や歴史書が隙間なく収められている。
部屋の中央に置かれた大きな長机の上には、大量の古文書や羊皮紙が乱雑に積み上げられていた。
精緻に描かれた魔導式。
世界樹神話の断片。
生命の樹の構造についての考察資料。
そして、神殺しの英雄である魔導王ルシウスに関する、あらゆる観測記録。
その机に向かい、ペンを走らせている一人の青年魔導師がいた。
年齢は二十代後半。若くして研究所の最深部への立ち入りを許可された彼は、国内外から「百年に一人の天才」と称賛される極めて優秀な魔導師だった。
しかし、彼の中には決して満たされない渇望があった。
それは、魔導王ルシウスの存在である。
青年は、心の底からルシウスを超えたいと願っていた。
己の才覚を磨き上げ、いつかあの高みへ至り、魔導王と肩を並べたい。いや、超えてみせたい。本人はルシウスを明確なライバルとして強く意識し、血の滲むような努力を重ねていた。
だが残酷なことに、ルシウスの側は青年の顔はおろか、名前すら、存在していることすら知らない。
果てしなく広がる海と、水たまり。それが、二人の間にある圧倒的で絶望的な「温度差」だった。
(魔導王ほどの神がかった力……本当に、ただの人間だけで到達できる領域なのか?)
青年は、ランプの灯りを頼りに、擦り切れた目をこすりながら生命の樹に関する文献を調べ続けていた。
ルシウスの強さには、必ず何か隠された秘密があるはずだ。
食事も忘れ、睡眠を削り、疲労で視界が霞んでも、青年は憑かれたように古いページをめくり続けた。
その時だった。
山積みにされた資料の下から、一冊の古い本が滑り落ちてきた。
研究所の目録にはない、見たこともない古書だった。装飾の一切ない黒い革表紙で、背表紙に題名はなく、何語で書かれているのかすら分からない。
青年は不思議に思いながら、その革表紙へ手を伸ばし、ページを開いた。
――瞬間。
部屋の空気が、ふっと変わった。
卓上のランプの炎が、風もないのに大きく揺れる。
周囲のわずかな物音さえも吸い込まれるような、完璧な静寂。
突然。
青年の頭の中へ、直接「声」が響いた。
『……ねぇ。』
ビクッとして、青年は手から本を落とした。
バサリという音が異常に大きく響く。
青年は勢いよく立ち上がり、周囲を見回した。
薄暗い禁書庫には、自分以外誰もいない。
『君。
魔導王を超えたいんだろう?』
鈴の音のように軽やかで、子どものように無邪気な声だった。
「誰だ!」
青年は叫んだが、返事はない。
代わりに、頭の奥でくすくすと笑う声だけが響いた。
『ふふ。
知ってるよ。』
『ずっと見てた。君だけを。』
得体の知れない存在に思考を覗き見られていたことに、青年はゾッと恐怖した。
しかし、同時に抗いがたい「興味」も湧き上がってくる。
魔導の深淵を探求する者としての好奇心が、恐怖を上回ったのだ。
「姿を見せろ。お前は何者だ」
『まだ無理。』
声は、少しだけ残念そうに、甘えるように囁いた。
『だからお願い。
外へ出たいんだ。』
『……寂しいんだ。』
青年の背筋が凍る。
「……」
声は、甘い毒のように、青年の耳元へ優しくまとわりつく。
『ほんの少しだけ。封印を解いて。
そうしたら。』
『……君が望む景色を見せてあげる。』
長い、長い沈黙が落ちた。
薄暗い禁書庫には、青年の荒くなった呼吸の音だけが響いている。
青年は、床に落ちた黒い革表紙の古文書を、震える手でじっと見つめていた。
(本当に、そんなことが可能なのか……?)
あの、理不尽なまでに強大な魔導王を、超えられるというのか。
彼は決して悪人ではない。純粋に魔導を極めたい、上を目指したいという「向上心」の塊だった。
しかし、純粋すぎるがゆえに。力への渇望という「心の隙」に、その声の甘い誘惑が静かに、そして確実に蝕み始めていた。
部屋の隅。
誰もいないはずの、暗闇の奥。
そこから、楽しそうな小さな笑い声だけが微かに響いた。
『ふふふ……。』
『僕に会えばわかるよ。』
『君が探していた答えも。
魔導王が、どうしてあそこまで強くなれたのかもね。』
その声は、現実の空間の誰の耳にも届かない。
ただ、誘惑に囚われた青年の頭の中だけに、心地よい子守歌のように響き続けていた。
世界の表では、穏やかな時間が流れていた。
しかしその裏側では、誰にも知られることなく、一つの歯車が静かに動き始める。
誘惑は、力を求める者の心から入り込む。
そして、その声の主が世界へ姿を現す日は、もう遠くなかった。




