第41段階:初めての胸の高鳴り
柔らかな午後の日差しが、開け放たれた窓から魔導宮の部屋へと差し込んでいた。
そよ風が白いレースのカーテンを揺らし、部屋の中には洗い立てのリネンの爽やかな香りが満ちている。
フェイは、エマと一緒に大きなテーブルを挟んで、乾いた洗濯物を丁寧に畳んでいた。
いつもの、穏やかで平和な魔導宮の日常。
しかし、フェイの様子が今日に限っては少しだけおかしかった。
シーツを畳みかけていたフェイが、急にピタリと手を止めた。
そして、少し困ったような、ひどく真剣な顔をして、自分の胸元へ小さな手を当てた。
「……エマ」
「はい、お嬢様。どうなさいました?」
エマが手を止めて微笑みかける。
フェイは、自分の胸の奥を探るようにしながら、ぽつりぽつりと話し始めた。
「最近ね。ルシを見るとね…
胸がね、トクトクするの」
エマは、畳みかけていたタオルを持ったまま、一瞬だけ動きを止めた。
フェイは本気で悩んでいるようだった。
「病気かな?
苦しいわけじゃないの。
でも。でも…。なんか熱い。
ルシの顔を見ると、目も合わせにくいし……」
フェイは不安そうに見上げる。
「これ、風邪?」
エマは、そのあまりにも純粋な問いかけに、すべてを察した。
しかし、ここで決して笑ったりからかったりしてはいけない。
エマは優しい姉のように、ふんわりと微笑み返した。
「お嬢様。
それは、病気ではありませんよ」
フェイは不思議そうに小首を傾げる。
「じゃあ、何?」
エマは少しだけ照れたように頬を染め、優しく答えた。
「恋です」
フェイは、ぱちぱちと目を丸くした。
「……コイ?
お魚のコイ?」
エマはふふっと笑った。
「いいえ。
大切な人を特別に想う、”好き”というお気持ちでございます」
フェイは、自分の胸に手を当てたまま、静かに考え込んだ。
「好き……?
……好き」
その言葉を何度か口の中で転がしてみる。
すると、自然と頭の中に、ある人の姿が次々と浮かんできた。
少しだけ口元を緩めた、ルシウスの不器用な笑顔。
毎日、優しく頭を撫でてくれる、あの大きな手。
午後三時、向かい合って過ごす温かなティータイム。
「おかえり」と言った時に感じる、ほっとする気持ち。
「明日十五時には帰る」と、真剣な顔で約束してくれた時のこと。
思い出すたびに、胸の奥がキュッと鳴り、トクトクと鼓動が早くなっていく。
フェイの白い頬が、みるみるうちに林檎のように真っ赤に染まっていった。
「…………わぁっ」
フェイは両手で顔を隠し、恥ずかしさのあまり、近くにあったふかふかのソファへバフッと顔を埋めてしまった。
ソファのクッションをぎゅっと抱き締めたまま、顔を隠して身をよじる。
その姿を見守りながら、エマは口元を袖で隠し、「可愛らしいこと……」と心底愛おしそうに微笑んだ。
その頃。
そんなフェイの心境の変化など全く知らないルシウスは、執務室で大量の書類と向き合い、普通に仕事を進めていた。
そこへ、カシアンが静かに入室してくる。
彼は銀のトレイに乗せた、金箔張りの豪奢な封筒を差し出した。
「閣下。
世界連合主催。アークレイア王国第一王子の、成人祝賀会への招待状です」
ルシウスは書類から目を離さず、即答した。
「断る」
しかし、カシアンは冷静に言葉を続ける。
「今回は、辞退されるのは難しいかと存じます。
開催者より、必ず『パートナー同伴』での出席を、と強く念押しされております」
ルシウスの手が止まり、端正な眉が僅かに動いた。
「……パートナー」
カシアンは頷く。
「独身の王侯貴族は、婚約者候補、あるいは最も近しい女性を伴うのが慣例となっております」
そして、少しだけ間を置いて、静かに続けた。
「……もし閣下が、頑なにお一人で出席されれば
世界中が、あの世界会議で閣下が守ると宣言された少女の存在を、逆に疑います。
隠し続ける方が、不自然になります」
ルシウスはペンを置き、深い沈黙に落ちた。
世界会議で、彼はフェイを守ると宣言した。
今さら隠せば、各国は確信に変えるだけだ。
ルシウスは少し考えた後、短く告げた。
「……連れて行く」
カシアンは、ほっとしたように深く一礼した。
「承知いたしました。至急、準備を進めさせます」
夜。
フェイの部屋。
柔らかなベッドへ入ったフェイは、暗い天井を見つめたまま、なかなか寝付けずにいた。
「恋って……
これが、恋なの?」
布団の中で、自分の胸へそっと手を当てる。
トクトク。
ルシウスの顔を思い浮かべるだけで、また鼓動が速くなる。胸が苦しくて、でもなんだか温かくて、くすぐったい。
「〜〜〜っ!」
フェイは枕へ顔を深く埋め、恥ずかしさのあまり、布団の中で小さく足をばたつかせた。
「ルシ……」
枕にこすりつけるようにして、小さくその名前を呼ぶ。
その頃。
別室の執務室では、ルシウスが一人、ランプの灯りの下で執務を続けていた。
ふと。
本当に理由もなく、フェイが笑っていた姿が脳裏を過った。
頭を撫でた時の笑顔。
午後三時の紅茶。
「おかえり。」
「…………」
ルシウスは、ペンを持ったまま動きを止めた。
なぜ今、彼女の顔を思い出したのか、自分でも理由が全く分からない。
彼は小さく息を吐き出すと、僅かに頭を振り、再び目の前の書類へ視線を戻した。
一人は、自分の胸の高鳴りに「恋」という名前を知った。
もう一人は、その名前さえ知らない。
けれど二人の心は、本人たちが気付かないまま、少しずつ同じ場所へ近付いていた。
その想いが世界中の前で試される日が、もうすぐ訪れようとしていた。




