第40段階:積み重なる季節と、変わらない午後三時
フェイが魔導宮へ来てから、一年が過ぎようとしていた。
灰色の雪だけが降り積もっていた凍てつく森に、少しずつ四季が戻り始めていた。
それは一朝一夕の奇跡ではない。フェイが魔導宮へ来てから一年かけて、ゆっくりと積み重なった、小さな命の変化だった。
春。
生命の樹の周囲や魔導宮の広大な庭に、少しずつ色とりどりの花が増えていった。
フェイは毎朝、朝日を浴びながら庭へ出ると、植物たち一つ一つに「おはよう」と優しく声を掛ける。
「今日もいいお天気だね」
「お水、いっぱい飲んでね」
彼女は、植物を育てる時だけは魔法に頼ろうとしなかった。
冷たい井戸水を汲み、重いジョウロを両手で抱えて水やりをし、葉の汚れを手で拭い、話しかけながら世話をする。
翌日には不思議と蕾が増えていたり、心地よい歌声に誘われた小鳥たちが集まってきたりした。
その様子を見守りながら、庭師ローデンは皺だらけの目元を細めて微笑む。
「本当に、植物が嬉しそうですな」
夏。
日差しが強くなり始めた、ある日の午後三時。
いつものように執務室でティータイムを迎えようとしていたルシウスに、フェイが突然提案した。
「今日は外で飲もう!」
ルシウスは一瞬だけ紫水晶の瞳を見開いたが、決して断ることはしなかった。
木陰に設えられたテーブル。
カシアンは涼しい風が吹き抜ける屋外であっても、完璧な所作でティーセットを準備してのけた。
フェイは心地よい風を感じながら、満面の笑みを浮かべて芝生を駆け回る。
ひらひらと舞う蝶を追いかけ、色鮮やかな花を摘んで器用に花冠を作った。
「ルシ、できたよ!」
そして、芝生に座るルシウスの頭へ、その手作りの花冠をぽすっと被せたのだ。
ルシウスは無言だった。
漆黒の威厳ある装いと、頭に乗った可憐な花冠。
あまりにも不釣り合いなその姿に、木陰に控えていた使用人たちは必死で笑いを堪え、肩を震わせていた。ルシウスは花冠を外そうとはしなかった。
カシアンは紅茶を注ぎながら、内心静かに思った。
(世界最強の魔導王へ花冠を被せられる者など、この世界にお嬢様しかいない)
その後、このティータイムは、フェイの気まぐれな提案で時々場所が変わった。
温室、中庭、湖畔、屋上、そして生命の樹の下。
毎回違う景色の中で紅茶を飲むことになっても、ルシウスは一度も「嫌だ」とは言わなかった。
秋。
読書の季節がやってくると、フェイは図書室から難しい魔導書を引っ張り出してきた。
「私ももっとお勉強する!」
意気込んでソファに座り、分厚い本を開いたものの、わずか数ページでこてんと首を傾げて眠りに落ちてしまう。
執務机からその様子を見ていたルシウスは、無言で立ち上がり、フェイの元へ歩み寄った。
本をそっと取り上げ、彼女を抱き上げてゆったりとしたソファへ寝かせ直すと、暖かな毛布を首元まで掛けてやる。
「……ルシ」
ルシウスの手が、一瞬だけ止まる。
寝言で小さく呟く声を聞き、ルシウスはほんの少しだけ目を細めた。
しかし何も言わず、再び自分の机へと戻っていった。
冬。
再び雪が降り積もると、フェイは中庭に飛び出して雪だるまを作り始めた。
完成したのは、フェイの背丈を遥かに超える、ものすごく大きな雪だるまだった。
「ルシ! 見て!」
得意げに胸を張るフェイ。
「名前は『ルシ』!」
フェイは、完成した雪だるまと、見学にやってきた本物のルシウスを交互に見比べる。
ルシウスは真顔で、雪の塊を見下ろした。
「……似ていない」
ただその一言だけを告げる。
「えー! そっくりだよ!」
と抗議するフェイの横で、雪だるまの頭には丁寧に黒いバケツが被せられていた。
周囲の使用人たちは、またしても腹筋を震わせて笑いを堪えることになった。
一年が経っても、フェイは攻撃魔法をほとんど覚えようとしなかった。
彼女が覚える魔法は、花を咲かせる、傷を癒す、冷えた手を温める、暗闇に灯りをともす、洗濯、掃除、料理、植物を育てるなど、生活を豊かにし、人を助けるための魔法ばかりだった。
ある日、厨房で料理長の手伝いをしていたフェイに、ガロンが言った。
「お嬢様、身を守るために、攻撃魔法も一つくらい覚えた方がいいのではありませんかな」
フェイは小麦粉で白くなった鼻先を揺らし、えへへと笑って答える。
「だって、誰かを倒すより、誰かを助ける方が好きだから」
その無垢で真っ直ぐな言葉に、ガロンは思わず笑ってしまった。
少し離れた場所でその会話を耳にしていたルシウスは、何も言わなかったが、静かにその言葉を聞いていた。
使用人たちは、もう誰一人としてフェイを「客人」とは思っていなかった。
料理を教わったり、一緒に掃除をしたり、庭師を手伝って土にまみれたり、温室で子猫たちと無邪気に遊んだり。
フェイがいるだけで、魔導宮全体が以前よりもずっと明るく、笑顔に溢れるようになっていた。
ルシウス自身は、まだ自分の中に芽生えつつある感情──恋愛感情というものを全く自覚していなかった。
しかし、フェイの存在は完全に彼の日常に溶け込んでいた。
午後三時が近づくと、自然とフェイの足音を待っている自分がいる。
フェイが少しでも来ない日は、無意識のうちに壁の時計を見上げてしまう。
そして「ルシ!」と彼女が笑顔で部屋に駆け込んでくると、すとんと胸の奥が安心し、そこで初めて紅茶を飲み始めるのだ。
本人でさえ、その理由を深く理解してはいなかった。
夕暮れ時。
茜色に染まる空の下、二人は生命の樹の根元に並んで立っていた。
そよ風が吹き抜け、葉音が心地よく鳴る。
フェイが、オレンジ色に輝く空を見上げながら、ぽつりと言った。
「一年って早いね」
ルシウスは静かに頷く。
「そうか」
フェイはルシウスを見上げ、マリンブルーの瞳をきらきらと輝かせた。
「来年も一緒?」
ルシウスは、一瞬の迷いもなく答えた。
「……当然だ」
その言葉を聞いて、フェイは今日一番の満面の笑みを浮かべた。
魔導宮には、穏やかな四季が巡っていた。
午後三時の紅茶も、使用人たちの笑顔も、生命の樹に咲く花も。
少女が来るまで止まっていた時間は、ゆっくりと、しかし確かに動き始めていた。
誰もが、この穏やかな時間が終わる日など来ないと信じていた。
だからこそ
運命は、最も幸せな一年を選ぶようにして、静かに牙を研いでいた。
だからこそ、その平穏が永遠ではないことを、この時はまだ誰も知らなかった。




