第38段階:世界会議の翌日
重苦しい空気と各国の思惑が交錯した世界会議の翌日。
紫色の転移魔法陣が魔導宮の玄関ホールに広がり、ルシウスは静かに帰還を果たした。
陣の光が消えるか消えないかのうちに、パタパタという軽い足音がホールに響く。
「ルシ!」
白金の髪を揺らしながら、フェイが満面の笑みで駆け寄ってきた。
そして、漆黒の礼装に身を包んだ威圧的な魔導王を見上げて、無邪気に笑う。
「おかえり」
そのたった四文字の響きに。
世界中を威圧し、冷徹に振る舞い続けていたルシウスの肩から、ふっと目に見えない毒気のようなものが抜け落ちた。
「……ああ」
ルシウスは、少しだけ表情を緩め、大きな手でフェイの頭を優しく撫でた。
いつもの午後三時。
執務室の窓際のテーブルで、二人だけのティータイムが始まった。
カシアンが淹れた芳醇な紅茶の香りが、部屋を満たしている。
ルシウスは世界会議の内容は、一切口にしなかった。
ただ静かに紅茶を飲みながら、フェイが執事長から箒の持ち方を教わった話や、エマや料理長とお菓子を作った話を、黙って聞いていた。
外の世界がどれほど不穏な影を落とそうとも、ここには変わらない穏やかな時間があった。
ティータイムが終わり、フェイがふと思い出したように口を開く。
「ノア、元気かな」
あの日、フェイが命を削って救い出した黒い母猫。彼女自身が「ノア」と名付けたその猫のことが気になったらしい。
ルシウスは立ち上がり、静かに頷いた。
「行くか」
ルシウス、フェイ、そしてカシアンとエマを伴って、一行は中庭の温室へと向かった。
ガラス張りの温室の中は、年間を通して心地よい暖かさが保たれており、色とりどりの花が咲き乱れている。その一角で、庭師がミルクの入った小さな皿を用意していた。
フェイの姿に気付くと、庭師は皺だらけの顔をほころばせて笑顔で言った。
「お嬢様のおかげです。
ノアもすっかり元気になりました」
フェイが嬉しそうにしゃがみ込むと、物陰から三匹の小さな子猫たちが一斉に駆け寄ってきた。
「みゃあ!」「みゃう!」と元気な鳴き声を上げながら、フェイの足元や膝へ次々と飛びついてくる。
「ふふっ、くすぐったいよ」
フェイは、子猫たちの柔らかな毛並みを撫でながら、心から幸せそうに笑った。
しかし、その微笑ましい光景を見守っていたエマが、ふと周囲を見渡して驚いたように声を上げた。
「あら……
また増えております」
エマの言葉にフェイたちが辺りを見回すと、花壇の影、棚の上、日当たりの良い通路のど真ん中に、ノアや子猫たちとは明らかに違う、見知らぬ野良猫がさらに何匹も集まって丸くなっていた。
吹雪から逃れてきたのか、魔導宮の結界をどうやってすり抜けたのか。
美しい花の温室は、いつの間にか猫たちの憩いの場所、もとい完全な「猫の楽園」と化していた。
フェイはそれを見て、困るどころか満面の笑みを浮かべた。
「みんな来た!」
まるで友達が増えたかのように喜ぶフェイの姿に、庭師もエマも、そしてカシアンも、たまらず吹き出して温かな笑い声を漏らした。
――そんな中。
ルシウスだけが、一人静かに、温室の奥に座るノアを見ていた。
ノアもまた、他の猫たちのようにフェイにすり寄ることはせず、ルシウスをじっと見つめ返している。
普通の猫とは違う。
まるで人間の奥底までを見透かすような、知性を宿した黄金の瞳。
しばらくの間、魔導王と黒猫の視線が静かに交差する。
「……」
ルシウスの胸の内に、何か論理的には説明できない、奇妙な違和感だけが静かに広がっていく。
カシアンが、その様子を見て微笑みながら言った。
「随分と懐かれておりますね」
しかし、ルシウスは表情を変えないまま、首を横へ振った。
「違う。懐いているのではない」
ルシウスの紫水晶の瞳が、僅かに細められる。
「……見定めている」
和やかだった温室の空気が、そこだけ少し冷たく沈んだ。
ただの獣ではない。あれは、明確な意思を持って自分を観察している。
その小さな、しかし確かな不気味さが、ルシウスの脳裏に静かに焼き付いた。
夜。
静寂に包まれた執務室。
カシアンが、仕事の区切りに合わせて温かいお茶を淹れる。
食器の触れ合う僅かな音だけが響く、静かな時間。
カシアンが、先ほどの温室での主人の様子を思い出し、静かに尋ねた。
「閣下。何か気になることでもございますか」
ルシウスは、暗い窓の向こう、温室がある方向へ静かに視線を向けていた。
咲き誇る花々。そこで笑っていたフェイ。無邪気に遊ぶ子猫たち。
そして、あの黄金の瞳を持つノア。
ルシウスは、窓ガラスに映る己の顔を見つめながら、静かに話し始めた。
「フェイが命を吹き込んだ。通常なら、あの猫は助かった命だった」
ルシウスの声が、夜の執務室に低く響く。
「だが……ノアは違う」
カシアンが、茶器を置く手を止めた。
「違う、と申しますと?」
ルシウスは振り返らず、淡々と事実だけを分析し、告げた。
「あれは、フェイの魔力によって生かされている。
命の一部を分け与えられた存在だ」
治癒魔法で傷が塞がっただけの獣ではない。
フェイという特異な生命体の力を内包し、その影響を直接受けて変質した、全く別の「何か」だ。
窓の外。
暗闇の広がる中庭の向こう、温室の屋根の上に、一つの黒い影があった。
ノアが、ゆっくりとこちらを見ている。
闇夜に浮かび上がる、二つの黄金の瞳。
遠く離れた執務室の窓越しにルシウスと視線を合わせると、黒猫は静かに、一度だけ深く頭を下げる。
それは獣の仕草ではなく、まるで貴族が主に対して礼をするような、洗練された動きだった。
そのまま踵を返し、何事もなかったように、黒猫はフェイの眠る部屋の方角へと闇の中を溶けるように消えていった。
それを見送ったルシウスは、小さく呟いた。
「理解している。
自分を救った者が、誰なのか」
穏やかな日常の裏側で。
フェイの力が生み出した未知の現象が、静かに、そして確実に魔導宮の中で息づき始めていた。




