第37段階:世界会議と、魔導王の宣言
世界会議、当日の朝。
完璧な正装に身を包んだルシウスは、魔導宮の広大な中庭に立ち、転移魔法の術式を編み上げていた。
足元に淡い紫色の光が広がり、空間が僅かに歪み始める。
その直前だった。
『守れ』
不意に、背後から声がした。
女とも男ともつかない。
年老いた獣が永い時を越えてきたような、低く静かな声。
ルシウスは僅かに目を細め、静かに振り返る。
そこに人の姿はない。
ただ、手入れの行き届いた垣根の影に、かつてフェイが命を削って救い出した黒い母猫が、じっとこちらを見つめて座っていた。
黄金の瞳が一度だけ瞬きをし、猫は音もなく垣根の奥へと姿を消した。
ルシウスは、誰もいなくなった垣根を見つめ、小さく息を吐いた。
「……気のせいか」
神殺しの魔導王にさえ知覚できない存在。
それが何を意味するのか、この時の彼は深く思考することをやめ、紫の光と共に世界会議の会場へと転移した。
大陸の中心に位置する中立都市、その最奥にそびえる大白亜宮。
ドーム状の広大な会議場には、巨大な円卓が据えられていた。
着席しているのは、この滅びゆく世界を牽引する絶対的な権力者たちだ。
誇り高き帝国の皇帝、信仰を束ねる聖王国の法王、新興の共和国代表、魔法国の大魔導師団長
そしてかつて世界を救ったとされる生ける英雄たち。
重厚な扉が開き、ルシウスが入室した瞬間。
議場を満たしていた微かなざわめきが、文字通り氷結したように消え失せた。
誰かが号令をかけたわけではない。
円卓を囲む世界の頂点に立つ者たちが、全員、極めて自然な動作で一斉に立ち上がった。
恐怖からか、あるいは絶対的な力への畏敬からか。
彼らは息を潜め、漆黒の礼装を纏った男が静かに歩を進めるのを見守る。
ルシウスが自身の席へ辿り着き、ゆっくりと腰を下ろす。
その所作が終わって初めて、各国の王や代表者たちは、安堵の息を漏らしながら一斉に席へと座り直した。
「世界最強の男」という事実が、言葉を交わすまでもなく、その場を完全に支配していた。
会議は、重苦しい報告から始まった。
各地の土地の枯死の進行度合い
深刻化する食糧不足と、それに伴う暴動
瘴気溜まりから発生する魔物の異常増加
歯止めのかからない出生率の低下
そして何より、世界の命綱である「生命の樹」の残された寿命について。
暗澹たる数字と予測が飛び交う中、突如としてある国の王が、静寂を破るように口を開いた。
「……しかし、一つだけ例外がある」
その一言で、議場の空気が張り詰めた。
王は、手元の資料を握りしめながら言葉を続ける。
「魔導宮だ。
我々の調査によれば、長年雪に閉ざされていた魔導宮周辺では、近頃になって穏やかな日が増え、植物が芽吹き始めている」
別の代表者が続ける。
「生命の樹も、一部ではあるが再び葉をつけ始めたという」
さらに学者が資料を掲げる。
「そして、絶滅したはずの精霊鳥ユリシスが、魔導宮でのみ確認されております。
……魔導宮でのみ、です。
一羽たりとも外では確認されておりません」
議場が静まり返る。
誰もが理解していた。
奇跡は世界で起きているのではない。
魔導宮だけで起きている。
円卓の視線が、一斉にルシウスへと集まる。
しかし、ルシウスは表情一つ変えず、ただ目を伏せて黙ってその報告を聞いていた。
沈黙に耐えきれなくなった魔法国の老学者が、身を乗り出して質問を投げかけた。
「魔導王閣下。……魔導宮には、一体何があるのですか?」
ルシウスはゆっくりと顔を上げ、紫水晶の瞳で学者を射抜いた。
「ない」
短い、一言。
しかし、その明確な拒絶に誰も納得しなかった。各国の代表者たちの間に、焦燥と疑念が渦巻き始める。
その時、若き共和国の代表が、意を決したように立ち上がった。
「白金の髪。青い瞳。……一年前から、魔導宮へ現れたという少女。存在しますね?」
会場の空気が、完全に変わった。
息を呑む音だけが響く中、ルシウスは静かに、底知れぬ冷たさを湛えた声で問い返した。
「……情報源は」
若き王は顔を強張らせ、口を噤んだ。情報網の存在を明かせば、自国が魔導王の怒りを買うことを理解しているからだ。
議場は、少女の存在を確信した各国の「思惑」で溢れ返り始めた。
「もしそのような存在がいるのなら、世界中から狙われる。我々、聖王国が神の御名のもとに保護すべきだ」
「いや、これは魔法の理を覆す事象だ。我が国と共同で研究を進めるのが筋だろう」
「兵器として運用できる可能性がある。帝国が管理し、魔物討伐の要とすべきだ」
「世界全体の危機なのだ! 商業国家の流通網を使い、その力は全人類へ公開されるべきである!」
それぞれの正義と、隠しきれない欲望が交錯する。
そんな中、一人だけ、深く皺を刻んだある老王だけが、穏やかな声で呟いた。
「……あの男が、ようやく笑えるようになったという噂もある。放っておいてやれ」
しかし、その声は熱を帯びた議論の中へ掻き消されていく。少女の存在は、滅びゆく世界にとってあまりにも大きな「希望」であり、同時に「劇薬」だった。
議論が最高潮に達しようとした、その時。
ルシウスが、静かに立ち上がった。
ただそれだけの動作で、大白亜宮の空気が重圧でひび割れたように感じられた。
全員が、文字通り息を止め、魔導王の次なる言葉を待つ。
「彼女は」
ルシウスは少しだけ間を置き、円卓の全員を冷徹に見下ろして、静かに、しかし絶対的な響きを持って言い放った。
「私の保護下にある」
「……以上だ」
それだけで、白熱していた議論が完全に終わった。
誰も、一言も反論できなかった。
「魔導王が守る」と宣言した少女へ手を出すこと。それは即ち、神を殺した男を敵に回すということであり、世界そのものと敵対するのと同義であると、円卓に座る誰もが理解させられたからだ。
会議は、不気味な静寂を保ったまま終了した。
帰還のため、大白亜宮のバルコニーで転移魔法の術式を展開しながら、ルシウスはふと、朝の出来事を思い出した。
魔導宮を出る前。
見送りに来たフェイが、少しだけ白い頬を赤く染めながら、上目遣いに言った言葉。
『……ルシ、かっこいい』
普段であれば、他者からの評価など気にも留めないはずだった。
しかし、彼女のその不器用で素直な言葉と、照れたような表情だけが、何故か頭の奥から離れてくれない。
(……らしくもない)
ルシウスが小さく息を吐き出した時。
ふと、バルコニーの欄干の先に、遠く離れた魔導宮にいるはずの黒猫の姿が見えた。
猫は一度だけこちらを真っ直ぐに見て、まるで「よくやった」とでも言うように、小さく頷くように尻尾を揺らすと、朝と同じように幻のように姿を消した。
ルシウスは、小さく目を閉じた。
「……分かっている」
自分は、何があってもあの少女を守り抜く。
しかし、今日の会議で隠しきれない火種は確実に蒔かれた。フェイという奇跡の存在が、世界に知られ始めるのは、もはや時間の問題だった。
ルシウスは目を開き、紫色の光に包まれながら、彼女の待つ帰るべき場所へと転移した。




