第36段階:世界会議当日の朝
世界会議、当日の朝。
魔導宮は、いつもより少しだけピリピリとした慌ただしさに包まれていた。
使用人たちが忙しなく廊下を行き交い、会議に向けた資料や手配の最終確認に追われている。
そんな中、大広間に集まった使用人たちとフェイへ向けて、カシアンが手帳を開きながら静かに告げた。
「本日より明日にかけまして、閣下は『世界会議』へご出席されます。
そのため、公務によりこの魔導宮を一泊二日で留守にされます」
その言葉を聞いたフェイは、ぽかんとして小さく瞬きをした。
「……ルシ、いないの?」
「はい」
カシアンは頷く。
「明日の午後三時頃までは、お戻りになられません」
フェイは少しだけ俯き、胸元を小さな手でぎゅっと押さえた。
「……なんだか。……不安」
理由は分からない。
たった一日、会えないだけだ。今までだって、彼が執務室に籠もりきりで顔を合わせない時間はあった。
それなのに、彼が「外の世界」へ行ってしまい、明日の午後まで帰ってこないという事実だけで、胸の奥が少しだけすうすうと冷たく、寂しい。
エマは、そんなフェイの不安げな顔を見て、そのやわらかな白金の髪を優しく撫でた。
「大丈夫ですよ。閣下は、必ずお戻りになりますから」
「……うん」
フェイが小さく頷き、返事をした直後だった。
廊下の向こうから、重いオーク材の扉が開く音が響いた。
コツン、コツンと、乱れのない足音が大広間へと近づいてくる。
フェイは反射的に振り返った。
そこに立っていたのは、世界会議へ向かうため、荘厳な正装に身を包んだルシウスだった。
漆黒の極上の生地で仕立てられた軍服風の礼装。
歩くたびに翻るロングマントには、緻密な銀糸で魔導の紋章が刺繍されている。
胸元には、彼の瞳と同じ色をした紫水晶の徽章が冷たく気高く輝く。
漆黒の礼装は、神々すら討ち果たした魔導王の威厳を静かに物語っていた。
誰もが思わず息を呑むほど、その姿は気高く、美しかった。
その姿を見た瞬間。
フェイは、思わず息を止めて立ち尽くした。
「……ルシ」
自然と、言葉が漏れる。
「……かっこいい」
その一言が、自分でも驚くほど素直に、口からこぼれ落ちた。
ルシウスは立ち止まり、フェイを見下ろして静かに応える。
「そうか」
いつも通り。
変わらない、平坦な声。
変わらない、感情の読めない美しい表情。
なのに
フェイは何故だか、その顔を真っ直ぐに見ることができなかった。
胸が、トクトクと少しだけ早く鳴って、熱い。
頬も、なんだか熱い。
(なんでだろう)
さっきまで普通だったのに。
いつもなら、彼の紫水晶の瞳を真っ直ぐに見つめ返せるのに。
今日はどうしても、目が合わない。
……合わせられない。
フェイは照れ隠しのようにスッと視線を逸らし、モジモジと小さく俯いた。
アイボリーのワンピースの裾を、両手でぎゅっと握りしめる。
ルシウスは、そんなフェイの落ち着かない様子を少しだけ不思議そうに見つめていたが。
やがて、黒い革手袋に包まれた大きな手を伸ばし、いつものようにフェイの頭をポンと優しく撫でた。
「明日の15時までには帰る」
ただ、その一言だけを残し。
彼はカシアンを伴って、静かに広間を歩き出す。
フェイは、遠ざかっていくその威厳ある広い背中を見送りながら、小さく、祈るように呟いた。
「……いってらっしゃい」
その声は、自分でも驚くほど甘く、優しかった。




