第35段階:静かな午後と、世界会議
ある日の午後三時。
ルシウスは、執務机に高く積まれた書類から静かに目を離し、手元の万年筆を置いた。
重厚な窓から差し込む、初夏の柔らかな午後の日差し。
壁に掛けられた古時計の針は、カチリと音を立ててちょうど三時を指したところだった。
誰に言われるでもなく
誰かに命じるでもなく
彼はいつもの窓際の席へ腰を下ろし、ティーカップが運ばれてくるのを静かに待っていた。
ほどなくして、重い扉が二度、控えめに叩かれる。
コンコン。
「入れ」
扉を開けたのは、銀のワゴンを静かに押したカシアンだった。
ワゴンには、淹れたての芳醇な紅茶と、今日のお茶菓子である焼き菓子が乗せられている。
しかし。その後ろから「ルシ!」と飛び出してくるはずの、小さな少女の姿がない。
ルシウスは、小さく視線を動かした。
「……フェイは?」
「本日は執事長のもとで、使用人の『お仕事』を体験されております」
カシアンは、完璧な所作でティーカップをテーブルへ置きながら答える。
「そうか」
ルシウスは短く返事をする。
それだけだった。
だが、何百年も彼に仕えてきたカシアンには、その抑揚のない一言と、僅かに伏せられた紫水晶の瞳だけで十分だった。
(閣下が、少しだけ残念そうにしている)
カシアンはワゴンを止め、慣れた手つきでルシウスのカップへ紅茶を注ぎながら、何事もないように口を開いた。
「閣下に、お伝えしなければならないことがございます」
「何だ」
「二週間後。十年に一度の『世界会議』が開催されます」
ティーカップから立ち上る紅茶の湯気が、静かに揺れた。
「各国の王、代表者、大魔導師たちが一堂に会し、今後の崩壊しゆく世界について協議したいとの要請です」
ルシウスは、表情を変えることなく黙って紅茶へ口をつけた。
「……断る理由はない」
「承知しております」
カシアンは、懐から一枚の羊皮紙を取り出し、机の上へ静かに置いた。
「ただし今回は、例年とは事情が異なります」
「続けろ」
「各国は、魔導王たる閣下の見解だけでなく――」
カシアンは、一拍置いた。
「この魔導宮周辺で起きている”奇跡”についても、確認したいと望んでおります」
部屋の空気が、わずかに、しかし確実に冷たく変わった。
ルシウスの視線だけが、静かにカシアンへと向けられる。
「……フェイか」
「はい」
カシアンは淡々と事実を列挙する。
「枯死したはずの生命の樹の、一部再生。
絶滅種の復活。
魔導宮周辺から各地へ広がり始めた、植物相の異常な回復
……既に各国の上層部は、この数ヶ月の急激な変化に『何らかの強大な要因』があるという関連性を疑っております」
重い沈黙が落ちる。
やがて、ルシウスは静かにティーカップをソーサーへ置いた。
「フェイは連れて行かない」
一切の迷いもない、断絶の一言だった。
カシアンは静かに頷く。
「私も、その判断が最善かと存じます」
「ですが――」
その続きを口にする時だけ、有能な参謀の声は少しだけ低く、険しくなった。
「一度でも『生命の樹の娘』の存在を知られれば、お嬢様を欲する者は必ず現れます。
保護しようとする者。
政治の道具として利用しようとする者。
力を解明するため、研究しようとする者。
……そして、力ずくで奪おうとする者」
部屋に、恐ろしいほどの静寂が落ちる。
ルシウスは、窓の外へと視線を向けた。
眼下の庭では、初老の執事長から箒の正しい持ち方を教わりながら、フェイが楽しそうに笑っている。
その無垢な笑顔を見つめたまま、ルシウスは静かに呟いた。
「……守る」
短い一言。
神殺しの魔導王が放ったその言葉は、たとえ世界中の国家を敵に回してでも、彼女だけは守り抜くという絶対の意思表示だった。それだけで十分だった。
カシアンは、主の背中へ深く一礼する。
「承知いたしました。……万全の準備を整えます」
その頃、庭では
フェイが、竹箒を逆さまに持ったまま、不思議そうに首を傾げていた。
「執事長」
「はい、お嬢様」
「これ、お掃除する道具じゃなくて、お空飛べそう」
フェイは、箒にまたがる真似をして嬉しそうに笑う。
執事長は、慌てて手を振った。
「……飛ばないでくださいませ! お怪我をされます!」
「えーっ」
灰色の魔導宮の庭に、今日も平和で小さな笑い声が響いていた。
しかしその穏やかで温かな時間が、いつか終わりを告げることを。
花壇の周りを走り回る少女は、まだ誰も知らなかった。




