第3段階:魔導宮と、初めての「ふかふか」
転移魔法の光が収まると、そこは圧倒的な静寂に包まれた巨大な城
――「魔導宮」の広間だった。
かつては数千人の魔術師や使用人がひしめき合い、魔法文明の栄華を極めた世界の中心地。
しかし、世界がゆっくりと死に向かっている今、この巨大すぎる城に住んでいるのは
ルシウス、カシアン、執事長、数人の女中、庭師、そして図書館司書のごく僅かな者たちだけだ。
必要最小限の灯りだけが灯る城内は、歩く足音がどこまでも響いていくほど静かで、どこか寂しい空気を纏っていた。
「まずは、部屋だ」
ルシウスが案内したのは、魔導宮の中ではごく一般的な標準的な造りの客室だった。
しかし、部屋に足を踏み入れた瞬間、少女の大きな瞳がこれ以上ないほどに見開かれた。
「わぁ……!」
感嘆の声を漏らしながら、彼女は部屋の中央に鎮座するベッドへと駆け寄る。
そして、一切の躊躇なく、その上へ勢いよくダイブした。
「ふかふかっ!」
泥だらけの服のままシーツに沈み込み、少女は頬をすり寄せて満面の笑みを浮かべる。
灰の森で、冷たい土の上で眠っていた彼女にとって、それは極上の天国だった。
その姿をドアの枠にもたれて見ていたルシウスの紫水晶の瞳が、微かに揺れる。
(……標準的な客室の、標準的な寝具だぞ。これで喜ぶのか)
ルシウスは無言のまま、背後に立つカシアンへスッと視線を向けた。
何百年も付き従ってきたカシアンには、その「無言の圧力」が何を意味するのか痛いほど理解できた。
(――明日までに、王族用の最高級羽毛と最高級シルクの寝具を手配しろ、ですね。畏まりました)
カシアンは胃の辺りを押さえながら、静かに一礼した。
「では、お嬢様。今度はこちらへ」
少女を案内したのは、60代ほどのベテラン女中、エマだった。
彼女が連れてきたのは、大理石で造られた壮麗な大浴場である。
立ち込める湯気と、たっぷりと張られた澄んだ湯を見て、少女はぽかんと口を開けた。
「……池?」
「ふふ、お風呂でございますよ。体を清めるところです」
優しく微笑むエマに、少女は目を輝かせて振り返った。
「泳いでいい?」
「ダメです」
エマは笑いながら即答し、泥だらけの服を丁寧に脱がせていく。
たっぷりの温かいお湯。
初めて嗅ぐ、花の香りのする石鹸。
生まれて初めて体験するシャンプーの泡立ち。
エマの熟練した手つきによって、灰と泥にまみれていた少女の身体は、見違えるように綺麗に磨き上げられていった。
風呂から上がると、丁寧に櫛を通された白銀の髪は、驚くほどさらさらと滑らかな輝きを取り戻していた。
エマが用意したのは、白とベージュを基調とした、清潔で質素なワンピースだった。
余計な装飾はない。
それでも、エマが手際よく髪を可愛らしく結い上げると
少女が本来持っていた無垢な愛らしさが、ふわりと花開いた。
エマに促され、姿見の前へ立った少女は、鏡に映る自分を信じられないというように見つめた。
そっと頬へ触れ、ぽつりと呟く。
「これ、私?……」
そして、鏡の中の自分へ向かって花がほころぶように笑った。
「……可愛い」
自画自賛ではない。
初めて出会った綺麗なものへ向けるような、純粋な喜びの声だった。
身支度を終えた少女が、エマに手を引かれて廊下へ戻ってくる。
そこでは、次の「観察」である食事のため、ルシウスとカシアンが静かに待っていた。
足音に気付いて振り返ったルシウスは、ピタリと動きを止める。
泥と灰を落とし、清潔な服に身を包んだ少女。
彼女が歩くたび、その足元では微かな魔力が揺らぎ、見えない小さな花が咲いては消えるような錯覚さえ覚えさせた。
「変な人! 見て!」
少女が嬉しそうに駆け寄ってくる。
ルシウスは相変わらず表情一つ変えない。
ただ、駆け寄る少女を見つめながら、誰にも聞こえないほど小さな声で、ぽつりと呟いた。
「……四季の花」
(――明日までに、最高の仕立て屋を呼び、四季に合わせたドレスを十数着ご用意しろ、ですね。はい、すでに手配済みでございます)
主の背中から放たれる新たな「無言の追加オーダー」を受信したカシアンは、静かに手帳へ書き込んだ。
「さあ、閣下。お嬢様もお腹を空かせておいででしょう。食堂へご案内いたします」
カシアンの促しに、少女が「ご飯!」と元気よく両手を挙げる。
世界最強の魔導王と、名もなき少女。
二人の初めての食事が、今、始まろうとしていた。




