第2段階:初めての「保護(かんさつ)」
思考の海からどうにか浮上したルシウスは、再び少女を見下ろした。
もはや、力や論理で彼女を動かそうとするのは無意味だと悟ったのだ。
「……望む物は」
ルシウスの問いに、少女はその空色の目を丸くした。
そして、少しだけ視線を上に向けて、一生懸命に考え始めた。
「パン」
ぽつり、とこぼれ落ちた言葉。
ルシウスが黙って頷く。
「スープ」
「お風呂」
指を折りながら、彼女にとっての「最大の贅沢」が紡がれていく。
そして、彼女は少しだけ口を噤み、恥ずかしそうに、けれど夢見るような声で付け加えた。
「あと……ベッド」
彼女は両手をふわりと広げ、微笑んだ。
「ふかふか」
その瞬間、ルシウスの胸の奥で、何百年も動くことのなかった奇妙な歯車が、カチリと音を立てて回った。
”死にゆく世界をどう延命させるか。”そのことだけを何百年も考え続けてきた男が
人生で初めて、「世界」ではなく「一人の少女の生活環境を改善する」という極小規模の計画を
脳内で真剣に立案し始めたのだ。
その主の微妙な変化を、長年の付き合いである補佐官は見逃さなかった。
カシアンが、静かに尋ねる。
「……保護なさいますか」
「違う」
ルシウスは、即座に、かつ冷徹に言い放った。
「観察だ」
その毅然とした態度に、少女が身を乗り出した。
「観察って、ご飯出る?」
「出る」
間髪入れず即答するルシウス。
「じゃあ観察される!」
少女は満面の笑みで、バンザイをするように両手を挙げた。
利害は完全に一致した。
(……完全に保護ですね)
カシアンは、灰の空を見上げながら心の中で深いため息をついた。
これから先、この「観察対象」に振り回される主の姿と、それに伴う己の胃痛の未来が、痛いほど鮮明に予測できたからだ。
少女の了承を得たルシウスは、魔導宮へ帰還するため静かに指先を動かした。
詠唱など不要。
ただの意志一つで、彼らの足元に精緻で複雑な空間転移の魔法陣が展開されていく。
淡い紫色の光が、灰色の世界を薄く照らし出した。
その光の中。
転移の直前、少女はふと足を止め、じっとルシウスの顔を見上げた。
大きな、透き通るような瞳が、ルシウスの無機質な紫水晶の瞳を真っ直ぐに射抜く。
「ねぇ、変な人は、寂しいの?」
魔法陣の光が、微かに揺らいだ。
ルシウスは、言葉を失った。
神殺し。魔導王。絶対者。
畏怖され、崇拝され、あるいは遠ざけられてきた数百年間
。誰一人として、彼にそんな根源的で、あまりにも無防備な問いを投げかけた者はいなかった。
世界を背負い続ける彼にとって、「孤独」などとうの昔に切り捨てたはずの感情だ。
答えられないルシウスをじっと見つめたまま、少女はさらに問いを重ねた。
「変な人は、何年生きてるの?」
その言葉に、ルシウスだけでなく、背後に控えていたカシアンまでもがピタリと固まった。
沈黙を破ったのは、有能な補佐官の咄嗟のフォローだった。
カシアンは僅かに顔を強張らせながら、それでも紳士的な笑みを浮かべて間に割って入る。
「失礼ですが、お嬢さん。我らの閣下は三十代半ばほどにしか見えませんが」
それは事実だった。
ルシウスの肉体は、神を殺したあの日から一切の老化を停止している。
どう見ても働き盛りの精悍な青年にしか見えない。
しかし、少女はきょとんと首を傾げた。
「うん。でも違うでしょ?」
何の魔力も持たない、ただの少女。
だというのに、彼女のその無垢な直感は、カシアンの巧妙なごまかしも、ルシウスの完璧な氷の仮面も、すべてをやすやすとすり抜けて核心に触れてくる。
彼女の目には、外見の若さではなく、彼が背負ってきた気の遠くなるような「時間」そのものが見えているかのようだった。
ルシウスは、彼女の瞳から目を逸らさなかった。
いや、逸らすことができなかった。
「……数えていない」
絞り出すようにこぼれ落ちた、不器用で、けれど嘘偽りのない言葉。
それを聞いた少女は、少しだけ悲しそうに、それでいてすべてを包み込むような柔らかい微笑みを浮かべた。
「そっか。忘れるくらい生きたんだね」
同情でもなく、憐憫でもない。
ただ、彼が歩んできた果てしない道のりを肯定するような、温かい響きだった。
ふわりと、少女の足元でまた一輪、小さな花が咲いた。
転移の光が最高潮に達し、三人の姿が灰の森からかき消される。
その直前、ルシウスの胸の奥で、何百年も凍りついていた何かが
微かに、本当に微かに
溶け落ちる音がした。




