第1段階:研究対象と「お腹すいた」
理解不能な事象を前に、ルシウスの思考は即座に「驚愕」から「観察と分析」へと切り替わった。
彼は立ち上がり、目の前の少女を見下ろした。
いや、正確には彼女という「謎の現象の発生源」を観察していた。
「君は何者だ」
「知らない」
「名前は」
「ない」
「親は」
「知らない」
淡々とした一問一答。少女は怯える様子もなく、小首を傾げたまま答える。
ルシウスの紫水晶の瞳が、微かに細められた。
「……なぜここにいる」
「草が食べられるから」
沈黙が落ちた。
灰の雪が降る音すら聞こえそうな静寂の中、ルシウスの超高速な思考が、一瞬だけピタリと止まった。
「……草?」
「うん」
少女は足元にしゃがみ込むと、灰にまみれた細い雑草を一本、ひょいと摘み取った。
「春はこれ。夏はこっち」
彼女は得意げに草を掲げ、ふわりと笑う。
「これ、おいしいよ。冬は大変だけど」
にこっ、と向けられた屈託のない笑顔。
「閣下」
背後から、周囲の痕跡を素早く確認していたカシアンが、信じられないものを見るような声で言った。
「この子……本当に草を食べて生き延びていたようです」
再び、ルシウスの思考が停止した。
神を討ち滅ぼし、魔法の深淵を極め、世界の理をすべて解き明かしたはずの男。
そんな彼にとって、「名もなき少女が、灰の森で草を食べて生きている」というちっぽけな事実が、どんな複雑な古代魔術よりも理解できなかった。
ルシウスは、じっと少女を見下ろした。
ボロボロの服から覗く手足は、枯れ枝のように細い。
「……腹は減っているのか」
無意識のうちに、そんな問いが口を突いて出ていた。
「今日はまだ何も」
少女はあっけらかんと答えた。
「でも慣れてる」
その言葉に、悲壮感は微塵もなかった。
誰かを恨むことも、己の不幸を嘆くこともない。それが彼女にとっての「当たり前」の日常なのだと、その明るい声が残酷なまでに物語っていた。
カシアンが息を呑み、思わず目を伏せる。
だが、ルシウスは淡々と問いを重ねた。
「苦しくないのか」
少女は、少しだけ不思議そうな顔をした。
「苦しいよ?」
当たり前のことを聞かれた、というように彼女は言う。
「でも、お腹すくのは死なないもん。だから平気」
そして彼女は、足元で咲き誇る一輪の花にそっと触れた。
「……花は死んじゃうから」
その瞬間だった。
ルシウスの視線が、動いた。
今までずっと、彼女が生み出した「花」という未知の現象しか見ていなかった男。
その彼が、初めて少女の顔を見た。
ボロボロの布切れを纏い、泥にまみれ、草を食べて生きる、名前すらない一人の少女。
ルシウスは初めて、彼女の「瞳」を真っ直ぐに見た。
灰色の死にゆく世界の中で。
その薄い水色の瞳だけが、ありえないほど透き通るように、強く、ただ真っ直ぐに輝いていた。
初めて「人」として彼女を見据えたルシウスは、静かに、だが確かな切実さを持って口を開いた。
「先程の現象を再現できるか」
少女はきょとんとして、小首を傾げた。
「……? うたのこと?」
「そうだ」
世界を救うかもしれない未知の力。
神殺しの魔導王が、その全存在をかけて放った要求に対し、名もなき少女は一切の躊躇なく言い放った。
「やだ」
灰の森に、冷たい風が吹き抜けた。
「…………」
「…………」
ルシウスも、背後のカシアンも、完全に沈黙した。
まさかの即答での拒絶。
何百年も絶対的な権力者として君臨してきた男に、「やだ」と一蹴した人間など、ラグナロクの時代にすら存在しなかった。
ルシウスは僅かに眉間を寄せ、低い声で尋ねる。
「……理由は」
少女は、さも当然だという顔で答えた。
「疲れるもん」
「…………」
「あと、お腹すいた」
ルシウスの思考が、三度目のフリーズを起こした。
その横で、胃の痛みを堪えるように眉間を押さえていたカシアンが、真顔のままボソリと呟く。
「極めて合理的な理由ですね」
主の威厳などお構いなしの鋭いツッコミだったが、ルシウスには反論する余裕すらなかった。
「歌うとね、お腹すくの。」
少女は自分のお腹をさすりながら、無邪気に笑った。
「だから、ご飯食べてから」
その言葉を聞いた瞬間、ルシウスの灰色の脳細胞が超絶的な速度で回転を始めた。
(歌うことで空腹に陥る……? つまり、周囲の事象を書き換えるための莫大な代償として、術者自身の魔力消費、いや、生命活動そのものをエネルギーに変換しているのか……? あるいは未知の創世エネルギーの反動……)
神すら凌駕する頭脳で、複雑極まりない術式と仮説を脳内で構築していくルシウス。
しかし、少女はそんな彼の深刻な顔を覗き込み、あっけらかんと言った。
「違うよ。普通にお腹すく」
「…………」
ガシャン、と。
ルシウスの脳内で組み上げられていた壮大な計算式が、音を立てて崩れ去った。
未知のエネルギーでも何でもない。
ただの健康的な生理現象だった。
世界最強の男は、またしてもバグを起こして完全に沈黙した。




