プロローグ:灰の森のバグ
空には巨大な亀裂が走り、そこから絶え間なく灰の雪が降り注いでいる。
かつて「神の庭」と呼ばれたその森は、今や生命の気配すらない死の大地へと衰弱していた。
乾いた足音が、灰を踏みしめる。
魔導王ルシウス。
数百年前、世界を滅ぼそうとした神々を屠り、その代償として死にゆく世界を背負うことになった男。彼の無機質な紫水晶の瞳は、崩れゆく景色をただの「データ」として淡々と処理していた。
ふと、風に乗って微かな旋律が鼓膜を打った。
歌だった。
ルシウスは立ち止まらない。視線すら向けず、歩みを続ける。
「……閣下?」
数歩後ろを歩いていた補佐官カシアンが、主のわずかな歩調の乱れを察知して声をかけた。
「……鳥だろう」
抑揚のない声で短く返し、ルシウスは再び前を向く。
この世界に、歌を歌う余裕のある生命など残っていない。
ただの風切り音か、魔物の鳴き声の錯覚だ。そう処理して、立ち去ろうとした。
しかし。
数歩歩いたところで、彼の視界の端を「ありえない色彩」が掠めた。
立ち枯れた黒い木。
炭化し、魔力すら完全に枯渇したその枝の先端に。
――小さな、緑の葉っぱが一枚、ついていた。
ルシウスの足が止まる。
カシアンが怪訝な顔をする中、ルシウスの目の前で、枯れ木からもう一枚
新たな葉が芽吹いた。
「…………」
数百年間、神を殺したあの日から、何を見ても動くことのなかったルシウスの鉄面皮が崩れた。
驚愕ではない。
歓喜でもない。
それは純粋な「理解不能」という感情。
彼の脳内で組み上げられた世界の絶対法則が、音を立てて崩れ落ちた瞬間だった。
ルシウスは踵を返した。
世界最強の無属性魔法。空間を捻じ曲げ、目的地へ一瞬で到達する「転移」など、彼にとっては呼吸より容易い。
だが、彼は魔法を使わなかった。
歩く。
一歩、また一歩。
幻覚ではないことを確かめるように
自分の足で、その物理現象を観測するために
ゆっくりと、灰の森の奥へと歩みを進めた。
森の中心。
そこだけが、狂っていた。
灰色の景色の中、そこだけが春のように暖かく、柔らかな光に包まれている。
ぼろぼろの麻布の服をまとい、泥に汚れた白銀の髪を風に揺らす、小さな少女が名もなき歌を口ずさんでいた。
彼女が歌うたび、死んだ大地から青々とした草が芽吹き、色鮮やかな花が咲き乱れていく。
ルシウスは、その光景を前にして静かに膝をついた。
少女の顔は見ない。
彼の視線は、足元で今まさに咲き誇ろうとしている「一輪の花」にのみ注がれていた。
長い指が、土に触れる。葉に触れる。
即座に、彼の脳内で超高度な魔法術式が展開された。
(魔力解析)
(無属性分解)
(時間遡行による事象確認)
(未来予測ルートの再構築)
世界を構成するあらゆる理を用いて、目の前の現象を言語化しようと試みる。
結果。
――― 全 部 エ ラ ー ―――
ルシウスの思考が、完全に停止した。
何百年もの間、世界を完璧に管理し続けてきた冷徹な超高性能コンピューターが、フリーズした。
「…………」
無言のまま、ただじっと土と花を凝視し続けるルシウス。
やがて。
歌うのをやめた少女が、不思議そうに彼を見下ろした。
そして、無防備に首を傾げて、こう言った。
「お花、好きなの?」
純粋な問いかけに対し、ルシウスは視線を花から一切動かすことなく、平坦な声で答えた。
「違う。……検証している」
「……? ケンショウ?」
少女は大きな瞳をぱちくりと瞬かせ、それから無邪気な笑みを浮かべた。
「変な人」
――神殺し。世界最強。魔導王。ラグナロク唯一の生還者。
数多の畏怖と敬意を込めた肩書を持つ男が、名もなき捨て子から「変な人」認定を受けた瞬間だった。
「閣下!」
そこに、ようやくカシアンが追いついてきた。灰の森に響き渡る声には、わずかな焦りが滲んでいる。
だが、主であるルシウスは立ち上がろうともしない。
しゃがみ込んだまま、目の前の少女には目もくれず、ただ土から生えた一輪の花を凝視し続けている。
その異様な光景に、世界最高峰の知略を持つ補佐官は眉をひそめた。
「……何を、されておいでで?」
カシアンの問いかけに。
ルシウスは、相変わらず花を見つめたまま、静かに口を開いた。
「分からない」
「……はい?」
カシアンは自分の耳を疑った。
聞き間違いだろうか。それとも、主は何か高度な比喩を用いているのだろうか。
ルシウスはゆっくりと立ち上がり、ようやくカシアンの方へその紫水晶の瞳を向けた。
「何も分からない」
その声には、感情の揺らぎはない。ただ、ありのままの事実を告げるだけの冷徹な響きだった。
しかし、その言葉が持つ意味の重さに、カシアンの全身が硬直した。
(分からない……?)
カシアンの思考が、激しく警鐘を鳴らす。
数百年間。この絶対的な主人に付き従ってきた長い歳月の中で、ただの一度たりとも聞いたことのない言葉だった。
ルシウスの辞書に、「できない」はなかった。「知らない」もなかった。
世界のすべてを支配し、解明し、管理してきたはずの男。
そのルシウスにすら、理解できない存在。
カシアンの視線が、主の足元で首を傾げているボロボロの少女へとゆっくりと向けられる。
(閣下にも分からないことが、この世界に存在するのか……)
灰の雪が静かに降りしきる中、カシアンの背筋に、畏怖とも戦慄ともつかない冷たい汗が伝った。




