第33段階:音のない楽器
街は、初夏を祝う祭りの熱気に包まれていた。
色とりどりの鮮やかな旗が初夏の風に揺れ、石畳の通りに並ぶ露店には、甘い匂いを漂わせる焼き菓子や、太陽の光を反射してきらきらと光る果物飴が並んでいる。
子どもたちは両手に飴を持ち、笑い声を上げながら人混みの間を縫うように走り回る。
中央の広場では、楽団の演奏家たちが陽気で軽快な音楽を奏で、街の人々は年齢も身分も忘れたように、楽しそうに手を取り合ってステップを踏み、踊っていた。
「すごい……」
フェイは、まるで絵本の中の世界に迷い込んだかのように目を輝かせながら、辺りをぐるぐると見回した。
「みんな笑ってる。……楽しそう」
ルシウスは、その小さな背中を守るように静かに横を歩いている。
彼の視線は賑やかな祭りへ向けられていたが、その思考は別のところにあった。
街に来る前に、エマから聞かされた言葉が頭から離れなかったのだ。
『来月で、フェイ様が魔導宮へ来られて一年になります』
魔導宮では、彼女を愛する使用人たちが密かに、そして全力で祝いの準備を始めている。
料理長は、腕によりをかけた特別な晩餐のメニュー構成に頭を悩ませ
庭師は、あの日を記念して花園を一年で最も美しく咲かせる計画を練り
エマは、彼女に似合う最高の新しいドレスを仕立てようと夜な夜な布地を選んでいる。
皆、それぞれの得意なやり方で、フェイの「魔導宮での一歳の誕生日」を祝おうとしていた。
だが
(私は……)
絶対的な権力と富を持つルシウスだけが、何を贈るべきか決められずにいた。
何かを贈りたい。それは強く思う。
しかし、フェイには「物欲」というものがほとんど存在しないのだ。
世界中の王侯貴族が欲しがるような大粒の宝石にも
最高級の絹で織られた服にも
絢爛豪華な装飾品にも
彼女はほとんど興味を示さなかった。
今日、この街へ来て彼女が一番嬉しそうに笑ったのは、高価な店を見た時ではない。
街角ですれ違った赤ん坊の、その小さな柔らかい手をそっと握った瞬間
――あの時の、慈愛に満ちた笑顔だった。
(何を贈れば、君は喜ぶ)
世界最強の魔導王は、かつて神々を相手に繰り広げた死闘の時よりもはるかに難しい難題に直面し、本気で、深刻に頭を悩ませていた。
――そんな時だった。
前を歩いていたフェイが、急にピタリと足を止める。
「ルシ」
「ん?」
「見て」
彼女が小さな指で指し示した先には、広場の隅に設置された小さな屋外ステージがあった。
踊り子たちが軽やかに舞い、歌い手が朗々とした声で観客を魅了し、楽師たちが様々な楽器を賑やかに演奏している。
その舞台の、一番端、一脚の木椅子だけが、ぽつんと空いていた。
そこには、誰も手を触れていない、小さな木製のハープが静かに置かれていた。
大人が膝の上へ乗せて弾けるほどの、小ぶりな竪琴。
淡い木目が美しく滑らかで、初夏の陽の光を受けて柔らかく、優しく輝いている。
フェイは不思議そうに首を傾げた。
「あれ、何? 誰も弾かないの?」
ルシウスは、その楽器へ静かに目を向ける。
「……ハープだ」
「ハープ?」
「張られた弦を指で弾き、音を奏でる楽器だ」
フェイは興味津々でステージを見つめた。
「あの人たちみたいに?」
「ああ」
「でも、どうして置いてあるだけなの?」
フェイがそう呟いた、ちょうどその時だった。
賑やかな演奏が一区切りつき、舞台袖から一人の少女が少し緊張した面持ちで姿を現した。年
齢は、フェイよりも少し上くらいだろうか。
少女は、両手で大切そうにその小さなハープを抱き上げる。
広場が、次の演目を待つようにスッと静まり返る。
少女は椅子へ浅く腰掛けると、目を閉じ、そっと細い弦へ指を添えた。
次の瞬間。
ポロン……
朝の雫が葉から落ちたような、澄み切った一音が、祭りの熱気と喧騒を優しく包み込んだ。
フェイの瞳が、驚きに大きく見開かれる。
「……!」
一音。
また一音。
透き通るような、それでいてどこか切なく温かい旋律が、初夏の風に乗って広場いっぱいへと広がっていく。
先ほどまで賑やかに笑い合っていた人々も自然と足を止め、その美しい音色へ静かに耳を傾けていた。
フェイは、息をすることさえ忘れたように、その楽器から生まれる「音」を瞬きもせずに見つめていた。
「……きれい」
それは、魔法のように誰かを倒すための力ではない。
誰かと競い合い、負かすための技術でもない。
ただ純粋に、聴く者の心を穏やかにし、空間を優しさで満たすための音だった。
ルシウスは、ハープの音色に完全に心を奪われているフェイの横顔を、静かに見つめる。
(……そうか)
初めてだった。
彼女が、明確に特定の「物」そのものへ、これほど強い興味と憧れを示した瞬間は。
いや、彼女が惹かれているのはハープという「木と弦の塊」ではない。その先にある、"音楽"という、目に見えない優しさに対してだ。
ルシウスは誰にも気付かれぬよう、紫水晶の瞳を小さく、満足げに細めた。
(見つけた)




