第32段階:街一番の菓子店
甘く香ばしい香りに誘われるように、フェイは石畳の通りを小走りで進んでいく。
「ルシ! あそこ!」
フェイが指差したのは、木造の可愛らしい店構えをした菓子店だった。
大きな窓の向こうには、こんがりと焼き色のついたスコーンや、艶やかな林檎が詰まったアップルパイ、色とりどりのアイシングが施された焼き菓子が所狭しと並んでいる。
店内から漂ってくる、たっぷりのバターと焦げた砂糖の甘い香りに、フェイのお腹が小さく「きゅる」と鳴った。
「いい匂い……」
ルシウスは、木彫りの可愛らしい看板を一瞥すると、そのまま静かに重厚な木の扉を開けた。
カラン。
扉に取り付けられた真鍮の鈴が、優しく軽やかな音を鳴らす。
店内で焼き菓子をショーケースに並べていたエプロン姿の初老の店主は、何気なく入口へ目を向けた。
そして。
手にしていた銀のトレーを、あわや落としかけるほど目を見開いた。
「……ル、ルシウス様!?」
その悲鳴のような声に、店内で優雅にティータイムを楽しんでいた客たちも、一斉に入口へと振り向く。
黒いロングコートを纏い、圧倒的な威厳を放つ魔導王の姿に、店内は水を打ったように静まり返った。
「これはこれは……!」
店主は慌ててカウンターから飛び出し、床に額がつくほど深々と頭を下げる。
「このような小さな店へお越しくださいましたこと、大変光栄にございます」
周囲の緊張などどこ吹く風で、ルシウスはいつも通り淡々と尋ねる。
「席は空いているか」
「も、もちろんでございます! あちらの窓際の一番良いお席へ! どうぞ、お連れ様も」
店主が震える手で案内する中、フェイはきょろきょろと店内を興味津々で見回していた。
「かわいい……。お菓子いっぱい……」
ショーケースに張り付くようにして、フェイの瞳がきらきらと輝く。
「ルシ! 見て! ケーキ! クッキー! パンもある!」
ルシウスは、その無邪気な様子に小さく頷くだけだった。
「好きな物を選べ」
「いいの!?」
「ああ。今日は街を知る日だ」
「やったぁ!」
フェイは両手を上げて喜び、嬉しそうにショーケースの端から端まで覗き込み始めた。
その微笑ましい姿を見送りながら。
店内では、客たちの間で静かな、しかし熱を帯びた小さなざわめきが広がっていた。
「あの方……。ルシウス様よね」
「間違いない」
「でも……」
「隣の女の子、誰?」
「親戚の方?」
「いや……ルシウス様に身内がおられるなんて、聞いたことがないぞ」
「じゃあ、お弟子さん?」
「いや、あの距離感は違う。……ずいぶん親しそうだった」
客たちがひそひそと推測を巡らせていると、ショーケースの前のフェイが振り返った。
「ルシ。ねぇルシ。これ食べてみたい!」
「……」
「ほら」
「やっぱり」
店内の客たちは、信じられないものを見たように顔を見合わせた。
「閣下を『ルシ』って呼んだぞ……。聞いたか? あんな呼び方できる人、この世界にいたのか?」
誰もが小声で囁き合う。
「恋人……?」
「いやいや。歳が離れすぎだ」
「娘さん?」
「そんな話、一度も聞いたことがない」
「養女?」
「それも、なんだかしっくり来ない」
様々な憶測が飛び交う中。
一人の年配の女性客が、フェイの白金の髪とルシウスの横顔を交互に見比べながら、懐かしそうに目を細めた。
「……まるで、春の女神ね」
周囲の客たちが、一斉に彼女を見る。
「え? あの昔話の?」
「神話に語られる、『運命の少女』……」
「まさか。そんなはず……」
囁き声は、やがて畏敬の念を込めた沈黙へと変わっていった。
誰も、本当の答えを知らない。
ただ一人。
ショーケースの前ではしゃぐ少女だけが、そんな周囲の熱を帯びた視線や神話の噂などまるで気付かず。
「ルシ! これ、半分こしよう!」
そう満面の笑みで振り返り、焼き立てで湯気を立てる大きなアップルパイを指差していた。
その屈託のない無邪気な笑顔を見て。
ルシウスは「ああ」と短く応じ、静かに窓際の席へ腰を下ろした。
店主は、注文の品を準備しながら、その穏やかな光景を見つめて胸の奥でそっと思った。
(何百年も……たったお一人で、この街と世界を守り続けてくださったお方が。
初めて、お一人ではない。
ようやく、笑っておられる)
午後へと向かう菓子店の中には、焼き立てのお菓子の甘い香りと、人々から向けられる温かな視線が、陽だまりのように静かに満ちていた。




