第31段階:守ってきた世界と、甘い匂い
騒がしい市場を抜け、少し落ち着いた石畳の街道を歩きながら。
フェイは、先ほどの出来事を静かに思い返していた。
どれだけ願っても救えなかった、冷たい命。
善意を利用し、平気で嘘をつく少年の背中。
それは、優しさと温かさに満ちた魔導宮の中では、決して知ることのなかった「現実」だった。
しばらく黙って歩いていたフェイが、ぽつりと呟く。
「……世界には、色んな人がいるんだね」
隣を歩くルシウスは、前を見たまま静かに頷いた。
「ああ。
善人もいる。悪人もいる。
そのどちらでもない者もいる」
フェイは足元へ視線を落としたまま、小さく笑った。
「今日だけで、いっぱい勉強になっちゃった」
少しだけ、間を空ける。
それから、フェイはゆっくりと顔を上げ、真っ直ぐに前を向いた。
その瞳にもう迷いはなく、どこまでも澄んだマリンブルーが、目の前に広がる色とりどりの街並みを鮮やかに映し出している。
「私、もっと色んな世界を見たい」
ルシウスは、隣を歩きながら静かにその言葉に耳を傾ける。
「もっと色んな人と会って、もっと色んなことを知って。……それで」
フェイは、少し照れくさそうに笑った。
「私に、どんなことが出来るのか考えてみたい」
その言葉に、ルシウスは思わず歩みを止めそうになった。
彼女は、何かを成し遂げるための「力」を欲しているのではない。
誰かより強くなりたいわけでも、偉くなりたいわけでもない。
ただ
自分という存在が、この世界で”どんな手助けができるのか”を探したい。
そのささやかで純粋な願いは、あまりにもフェイらしかった。
しばらく、二人の間に穏やかな沈黙が流れる。
やがてフェイは、歩きながらルシウスを見上げた。
「ルシウス」
「なんだ」
「ルシウスは、この街だけじゃなくて。もっともっと広い世界を、ずっと守ってきたんだね」
ルシウスは、何も答えない。
自分が壊した世界を、ただ必死に繋ぎ止めてきただけだ。
守ってきたなどと、胸を張れるようなものではない。
しかし、フェイはそんな彼の葛藤など知る由もなく、ふわりと花が咲くように笑って言った。
「……すごいね」
その、何気ない一言が
神々と戦い
数え切れない命を喪い
何百年もの間、誰に理解されることもなく
ただ罪悪感という玉座に一人で座り続けてきたルシウスの胸の奥へ
雪解け水のように静かに染み込んでいく。
彼は決して、誰かに賞賛されたかったわけではない。
自らの罪を、誰かに赦され、理解されたかったわけでもない。
それでも。
「すごいね」
無垢な少女から向けられたそのたった四文字の肯定は、どんな壮麗な勲章よりも重く、そして、どこまでも温かかった。
ルシウスは視線をスッと逸らし、感情を隠すように小さく息を吐いた。
「……私は」
何かを言いかける。
「私が世界を壊したのだ」と、真実を告げようとしたのか。それとも、別の言葉だったのか。
しかし結局、彼がその続きを口にすることはなかった。
その時だった。
ふわり。
初夏の風に乗って、甘く香ばしい香りが漂ってきた。
焼きたてのバター。
砂糖が焦げる匂い。
ふっくらと焼き上がった小麦。
街角の小さな菓子店から流れてくる、幸福そのもののような匂い。
フェイの小さな鼻が、ぴくりと動いた。
「……!」
先ほどまでの真面目な顔はどこへやら。フェイの顔が、太陽を浴びたひまわりのようにパッと輝く。
「ルシ! あれ! あれ絶対おいしい!」
目をきらきらと輝かせながら、焼き菓子が並ぶショーウィンドウをビシッと指差す。
さっきまでの重く静かな空気を一瞬で吹き飛ばすその無邪気な姿に、ルシウスは思わず、呆れたように口元を緩めた。
「……行くか」
「うん!!」
フェイは最高に嬉しそうにルシウスの大きな手を掴み、そのまま甘い香りが漂う菓子店へ向かって、元気よく駆け出した。
ルシウスは一瞬だけ、その温かな手の感触に視線を落とした。
小さな手。
温かい。
それだけ確認するように指先を僅かに動かし、そのまま何も言わず歩き出す。
引っ張られる魔導王の黒いコートが、軽やかに風に舞う。
その微笑ましい後ろ姿を見守りながら、少し後ろを歩いていたカシアンは、手帳を胸に当てて小さく笑い声を漏らした。
(深刻なお話は、五分と持ちませんか)
……まったく。それがお嬢様らしいところでございますね)
初めての街。
灰色の世界で知った、小さな残酷さと、確かな優しさ。
そして、甘い焼き菓子の匂い。
フェイとルシウスの初めてのお出かけは、賑やかな街の喧騒の中へと、温かく溶けていった。




