第30段階:救えない命と、嘘をつく少年
豪華な黒塗りの馬車は、石畳の街道をゆっくりと進んでいた。
心地よい揺れに身を任せていたフェイは、ルシウスの右肩にもたれたまま、ゆっくりと目を覚ます。
「……ん」
小さく伸びをして、まだ少しぼんやりとした頭で窓の外へ目を向けた。
――その時だった。
フェイの表情が、一瞬で凍りつく。
「止めて!」
悲鳴のような突然の大声に、御者席のカシアンは即座に手綱を引いた。
いななきと共に、馬車が急ブレーキをかけて静かに止まる。
「どうした」
ルシウスが尋ねるより早く、フェイは馬車の扉を開け、外へ飛び出していた。
街道脇。狂った気候によって灰色の雪が積もった草むらの中に、一人の老人が力なく横たわっている。
フェイは慌てて駆け寄り、雪にまみれたその身体を抱き起こした。
「ねぇ! 大丈夫!?」
返事はない。
抱きかかえた身体は、氷のように冷たかった。
それでもフェイは必死だった。
「ルシ! まだ間に合うよね!」
ルシウスは馬車から降り、静かに歩み寄る。
手袋を外した右手を老人へかざし、無属性の魔力をその全身へと走らせて状態を確認した。
数秒後。
彼は静かに、首を横へ振った。
「……もう遅い」
フェイは、信じられないというようにルシウスを見上げる。
「でも。私、やってみる!」
フェイが老人の胸へ両手を重ねた瞬間。
彼女の掌へ、生命の源泉であるあの淡い水色の光が集まり始めた。
しかし。
その細い手首を、ルシウスの大きな手が静かに、しかし絶対的な力で掴み止めた。
「駄目だ」
「でも! 助けられるかもしれない!」
「駄目だ」
その声は、今まで彼女に向けたどの言葉よりも強く、厳格だった。
フェイの大きな瞳に、大粒の涙が浮かぶ。
「どうして!」
ルシウスは、雪の上に横たわる老人を静かに見つめたまま答える。
「命は、いつか終わる」
「……」
「君の力は万能ではない。救える命もあれば、すでに手遅れで、救えない命もある」
それが、この世界の絶対の理だ。
フェイは、ぽろぽろと涙をこぼしながら俯く。
「嫌だ……。助けたい……」
ルシウスは雪の上にしゃがみ込み、フェイと同じ目線になった。
そして、彼女の手首を掴んでいた手を緩め、その震える小さな両手を包み込む。
「もし今、君が生命力を使えば、君が倒れる。……それでも、この人は戻らない」
残酷なまでの真実だった。
失われた命に自らの命を注ぎ込んでも、虚空に消えるだけだ。
長い沈黙が落ちた。
やがて、フェイは震える手を、ゆっくりと老人の胸から下ろした。
涙が一滴、灰色の雪の上へと落ちて溶ける。
「……ごめんなさい」
その掠れた言葉は、ルシウスへではなく、腕の中で冷たくなっている老人へ向けられたものだった。
ルシウスは静かに立ち上がり、カシアンへ目配せをする。
「村へ知らせよう」
カシアンが転移魔法で近くの村へ連絡へと向かう。
ほどなくして駆けつけた村人たちの手によって、老人は家族の待つ温かな家へと帰ることになった。
フェイは、遠ざかる村人たちの背中を、最後までその場から動けずに見送っていた。
命には、救える命と、救えない命がある。
その無慈悲な現実を、フェイが初めて知った日だった。
再び、馬車は目的の街へ向かって走り出す。
車内には、行きとは違う重く沈んだ空気が流れていた。
ルシウスも何も言わない。
フェイも、ただ膝を抱え、黙って窓の外を眺めるだけだった。
そんな重苦しい空気を破ったのは。
「泥棒だ!!」
馬車が街の市場の入り口へ入るなり、外から響いてきた怒声だった。
フェイが窓から顔を出すと、一人の薄汚れた少年が、パンを一つ脇に抱えて人混みの中を必死に走っている。その後ろを、エプロン姿の店主が怒り心頭で追い掛けていた。
フェイは、反射的に馬車を飛び出した。
「待って!」
フェイの声に驚いたのか、振り返った少年が石畳に足を取られて転ぶ。
抱えていたパンが、地面へと転がり落ちた。
追いついた店主に胸ぐらを掴まれ、少年は息を切らしながら泣き叫んだ。
「許して! 弟が三日も食べてないんだ! 母さんも重い病気で、お金がなくて……!」
その悲痛な叫びに、フェイは胸を強く押さえた。
先ほど救えなかった老人の姿が脳裏を過る。家族のために泣くこの少年を、見過ごすことなどできなかった。
フェイは、後ろから歩いてきたルシウスを見上げた。
「ルシ……。私が、パン買ってあげてもいい?」
ルシウスは少年の顔を一瞥すると、静かに頷いた。
「構わない」
フェイはひどく安堵し、エマから持たされていたお小遣いの入った小さな財布から硬貨を取り出すと、店主へ代金を支払った。
そして、土を払ったパンを、少年の手へ優しく差し出した。
「これで、弟さんに食べさせてあげて。お母さんも、早く良くなるといいね」
少年は信じられないものを見るようにフェイを見つめた後、涙ぐみながら何度も何度も頭を下げた。
「ありがとう……! ありがとうございます、お嬢様!」
少年はパンを抱き締め、そのまま路地の奥へと足早に走り去っていった。
フェイは、その小さな背中を見送って、今日初めて少しだけ笑顔を取り戻した。
「よかった」
しかし。
硬貨を受け取ったパン屋の店主は、呆れたような、同情するような深いため息を吐いた。
「お嬢さん。優しいのは結構だがね……。その子、昨日も他の客に同じこと言ってたよ」
フェイの笑顔が、ピタリと固まる。
「……え?」
「あいつの母親はピンピンして元気だし、弟なんていやしない。ああやって同情を引いて、何度も同じ手でパンを騙し取ってる悪ガキさ」
周囲で騒ぎを見ていた市場の人々も、「またあいつか」「お嬢ちゃん、騙されちまったな」と苦笑しながら頷いている。
フェイは、呆然と路地の奥に立ち尽くした。
命は、必ずしも救えるわけではない。
そして
人間は時に、人が人を想う「善意」さえも平気で利用し、嘘をつく。
フェイはこの一日で、世界の美しさだけでなく、あまりにも重い二つの現実を知ることになった。




