第29段階:初めての馬車
魔導宮の正門前。
朝日に照らされた石畳の上には、一台の美しい黒塗りの馬車が静かに停まっていた。
艶やかな漆黒の車体には、魔導王の象徴である銀細工が精緻に施され、四頭の立派な黒馬が堂々と並んでいる。
その姿は豪華でありながら決して華美すぎることはなく、絶対的な威厳を纏っていた。
フェイは目を丸くし、大きく口を開けた。
「わぁ……! これ、動くお家?」
後ろで控えていたカシアンが、手帳で口元を隠して思わず吹き出しそうになる。
「馬車でございます、お嬢様。街まではこれに乗って向かいます」
「ばしゃ!」
フェイは興味津々で、繋がれた黒馬たちへ近付いた。
「こんにちは」
彼女が恐る恐るその首筋へ触れようとすると、誇り高く気性の荒い黒馬たちは警戒するどころか、嬉しそうに鼻先をフェイの小さな手へ優しく擦り寄せてきた。
「ふふっ、くすぐったい。温かいね」
フェイが撫でてやると、もう一頭も。
さらにもう一頭も。
四頭すべてが、まるで母に甘える子馬のように、競うようにフェイへ顔を寄せてくる。
荷物を運んできた庭師が、その光景を見て苦笑する。
「馬まで、お嬢様がお好きなようですな」
料理長も、立派なピクニックバスケットを抱えながら深く頷く。
「猫といい馬といい、動物という動物が皆、お嬢様へ懐きますね」
少し離れた場所でその様子を静かに眺めていたルシウスは、小さく呟いた。
「……当然だ」
誰にも聞こえないほど、小さな声だった。
生命の樹の娘。大自然の意志そのものに愛され、生命力を与える存在。
獣たちが彼女を慕うのは、この世界の理において当然の帰結なのだ。
やがて、カシアンが優雅な動作で御者席へ腰を下ろし、静かに告げた。
「準備が整いました。参りましょう」
ルシウスが先に、しなやかな動作で馬車へ乗り込む。
続いてフェイも、アイボリーのワンピースの裾を少し持ち上げ、勢いよくステップに足を掛けようとした――その時。
高い位置にある馬車のステップに上手く乗れず、小さな身体がぐらついた。
「あっ」
落ちる。
フェイがそう思って目を瞑った瞬間。
ルシウスの大きな手が、そっと彼女の小さな手を包み込んだ。
「……ゆっくりでいい」
ルシウスは引き寄せるようにフェイを軽々と支え、そのまま安全に馬車の車内へと乗せる。
「ありがとう、ルシ」
フェイは照れくさそうに笑い、車内を見渡した。
ルシウスは奥の席に座り、フェイが向かいの席に座るのを待っていた。しかし、フェイは迷わず、ルシウスのすぐ隣の席へとちょこんと腰を下ろした。
「こっち! 景色、一緒に見よう!」
ルシウスは少しだけ驚いたように彼女を見下ろしたが、何も言わず、小さく頷いた。
やがて、カシアンが手綱を揺らし、馬車が静かに走り始めた。
重厚な魔導宮の大きな門が、ゆっくりと開かれていく。
フェイは、窓ガラスへ顔を押し付けるようにして外を覗き込んだ。
「わぁ……。ルシ! 見て! 森!」
「ああ」
「鳥!」
「ああ」
「あっ、お花!」
「ああ」
初めて見る流れる景色に興奮し、五秒に一度は話しかけてくるフェイ。ルシウスはその度に鬱陶しがることもなく、静かに、そして正確に「ああ」と返事をしていく。
御者席でその声を聞いていたカシアンは、手綱を握りながら思わず苦笑した。
(閣下が……途切れることなく会話をされている。
以前の閣下なら、最初の三言で会話を打ち切っておられたはずなのですが)
馬車が森を抜け、しばらく進むと、街道の脇には干上がってひび割れた小川や、崩れ落ちたままの石橋の跡が点在し始めた。
フェイは窓からその景色を見つめ、少しだけ表情を曇らせた。
「ここも……ラグナロク?」
「ああ」
ルシウスは静かに頷き、外の景色を見つめる。
「直せる所は、直した。……だが、すべては戻らない」
自分が壊した世界。彼が何百年も向き合い続けてきた、取り返しのつかない罪の痕跡。
フェイは何も言わず、その乾いた景色をただ静かに見つめ続けた。
やがて馬車が進み、ルシウスの魔力によって延命された再び明るい森のエリアへ入ると、窓の隙間から小鳥たちのさえずりが聞こえ始めた。
「きれい……」
窓から差し込む、柔らかな朝の陽射し。
舗装された道を走る、心地よい馬車の揺れ。
隣に座るルシウスの、安心する体温。
興奮と緊張が解けたフェイは、次第に心地よい眠気に誘われていった。
「ルシ……」
「ん?」
「あと……街まで……」
「一時間半ほどだ」
「長い……」
とろんとした目でそう呟いた、数分後。
こてん。
フェイの頭が、そっとルシウスの右肩へ預けられた。
スースーという、静かで規則正しい寝息が聞こえてくる。
ルシウスは、自分の肩に寄りかかる小さな頭へ一瞬だけ視線を落とした。
姿勢を正して起こそうとして――しかし、その手は空中でピタリと止まる。
「…………」
ルシウスは結局何も言わず、静かに手を下ろし、そのまま窓の外の景色へと視線を戻した。
御者席のカシアンは、小窓から微かに伝わってくる気配を感じ取り、前を向いたまま小さく微笑む。
(閣下。一時間は、そのままの姿勢でいらっしゃるのでしょうね)
豪華な黒塗りの馬車は、穏やかな揺れと共に。
フェイにとって初めての街へ向かって、初夏の風の中を静かに走り続けていた。




