第28段階:初めてのお出かけ
街へ出掛ける、当日の朝。
静寂が常であった魔導宮は、朝からどこか浮き足立ったような、落ち着かない空気に包まれていた。
「フェイ様、こちらはいかがでしょう?」
エマは衣装部屋から何着もの可愛らしいワンピースを運び込み、フェイの前のベッドへ次々と並べていく。
淡い空色。
白を基調とした可憐な花柄。
優しいクリーム色。
「本日は街をたくさん歩きますから、動きやすいものがよろしいですね」
フェイは、並べられた服を一着一着、目を輝かせながら眺めていた。
やがて、その中から柔らかなアイボリーのワンピースを指差す。
「これ!」
「はい、とてもお似合いになると思います」
エマは嬉しそうに微笑み、手際よくフェイの着替えを手伝うと、次にその髪を丁寧に梳かしていく。
透き通るような白金の髪は、肩の辺りでふわりと揺れるように整えられ、サイドに小さな白い花飾りだけをさりげなく添えられた。
「できました」
全身鏡の前に立ったフェイは、信じられないものを見るように目を丸くし、くるりと一回転した。
ふんわりとアイボリーの裾が揺れる。
「わぁ……! 私じゃないみたい!」
その頃。
別室では、カシアンが珍しく、主のクローゼットを大きく開いていた。
「閣下。本日は街へのご外出でございます。どうか、こちらを」
カシアンが恭しく差し出したのは、いつもの装飾を排した黒一色の執務服ではなかった。
黒を基調としながらも、極めて仕立ての良いロングコート。
濃い紫の意匠を凝らした刺繍が袖口と襟元にだけ控えめに施され、胸元には上品な銀細工の留め具が光っている。
魔導王としての威圧感は残しつつも、どこか洗練された「青年貴族」の正装に近い、美しい外出着だった。
ルシウスは、それを一瞥して短く言う。
「いつもの服で構わない」
「いえ」
しかし、カシアンは即座に否定した。
「本日は公式な視察ではございません。お嬢様との『私的な外出』でございます」
「…………」
「街の皆も、閣下のそのお姿を拝見いたします。平時の服装では、お嬢様も街の者たちも緊張してしまいます」
補佐官の有無を言わさぬ正論に、ルシウスは小さく息を吐いた。
「……分かった」
数分後。
着替えを終えたルシウスが、自室から廊下へ姿を現した。
上質な黒いコートが歩くたびに静かに揺れ、胸元の銀の装飾が、窓から差し込む朝日を受けて僅かに輝く。
その姿は普段の冷徹な支配者以上に気品に溢れ、息を呑むほどに美しかった。
ちょうど同じ頃。
向かいの廊下の角から、着替えを終えたフェイも歩いてくる。
二人は、廊下の中央で同時に立ち止まった。
「……」
「……」
フェイは、目をぱちぱちと瞬かせる。
「ルシ……。今日、いつもと違う」
ルシウスもまた、完全に言葉を失っていた。
普段は泥だらけになって花園を駆け回り、煤だらけになって厨房から飛び出してくる少女。
その彼女が、今日は年相応の上品な装いで、少し照れくさそうに立っている。
透き通るような白金の髪。
宝石のようなマリンブルーの瞳。
柔らかなアイボリーのワンピース。
ルシウスは、無意識のうちに、その白い頬へ手を伸ばしかけた。
――しかし。途中でハッと我に返り、そのまま静かに手を下ろす。
「……似合っている」
絞り出した、短い一言。
フェイは一瞬だけ目を丸くし、次の瞬間には、白い頬をほんのりと赤く染めて、照れくさそうに
けれどとても嬉しそうに笑った。
「ありがとう。ルシも……かっこいい」
「…………」
今度は、ルシウスの思考が完全に停止した。
表情こそ変わらないものの、彼もまた、僅かに耳の先を赤くしている。
少し離れた後ろで見守っていたエマは、口元を押さえて小さく肩を震わせていた。
(お二人とも、本当に分かりやすいこと……)
カシアンも、手帳で口元を隠しながら静かに咳払いを一つ落とす。
(互いに照れておられる自覚がない……。まったく、微笑ましい主従です)
二人が、並んで玄関へと歩き始めた、その時だった。
エマが小走りでルシウスへ静かに歩み寄り、立ち止まった彼の耳元へ小さく囁いた。
「閣下」
「……来月で、フェイ様がこの魔導宮へいらっしゃって、ちょうど一年になります」
その言葉に、ルシウスはピタリと足を止めた。
一年。
あの日、すべてが死に絶えた灰色の猛吹雪の中で拾った、名もない少女。
世界を繋ぐかもしれない「観察対象」として迎え入れた、小さな存在。
気付けば。
彼女が笑い。
魔導宮の中を走り回り。
感情を殺していた使用人たちが笑い。
そして、この冷え切っていた魔導宮に、確かな温もりと笑顔が戻っていた。
ルシウスは、数歩先を歩くフェイの小さな背中を静かに見つめた。
フェイは重厚な玄関の扉の向こうを見つめながら、子どものようにはしゃいで振り返る。
「早く行こう、ルシ!」
その屈託のない声に。
ルシウスは、ほんの僅かに、だが確かに口元を緩めた。
「……ああ」
開け放たれた扉の向こうから、外の風が吹き込む。
そして二人は、初めて並んで、魔導宮の外の世界へと歩き出した。




