第27段階:初めての街
フェイが魔導宮へやって来てから、およそ十一ヶ月が経過していた。
灰色の森から拾われた文字も読めなかった少女は、今や本を読み、五大属性魔法の基礎を修め、司書やカシアンの教えのもと、少しずつこの「世界」の常識や地理についても学び始めていた。
ある日の午前。
フェイはいつものように図書館のふかふかなソファに座り、熱心に本を読んでいた。
分厚い世界地理の図鑑を開き、ページをめくっていた彼女は、ふと一枚の鮮やかな挿絵で手を止める。
色とりどりの屋根を持つ家や店が立ち並び、たくさんの人々が笑顔で行き交う、活気に満ちた景色の絵。
フェイは、大きな目をさらに丸くした。
「ねぇ、司書さん。街って、どんなところ?」
近くで古文書を整理していた初老の司書は、手を止めて優しく微笑みながら答えた。
「様々な人が暮らし、働き、笑い、時には泣きながら生きている場所でございます。
市場があり、焼きたてのパン屋があり、美しい洋服屋があり、お花屋さんもございます。
お祭りの日には、それはもうとても賑やかになりますよ」
森と魔導宮しか知らないフェイの頭の中に、キラキラとした光景が広がっていく。
その瞳が、星のようにきらきらと輝き始めた。
「行ってみたい!」
司書は、少し困ったように笑った。
「ですが、お嬢様がお一人で行ける場所ではございません。
……閣下のお許しが必要でございます」
その言葉を聞くや否や、フェイはバタンッと勢いよく本を閉じ、ソファから飛び降りて図書館を飛び出した。
「エマー!」
「はいはい、どうなさいました?」
廊下で洗濯物を畳んでいたエマが、駆け寄ってくる足音に振り返る。
「わたし、街に行ってみたい!」
エマは少し目を丸くして驚いたあと、ふんわりと優しく微笑んだ。
「それは素敵ですね。
ですが、お外に出るには閣下のお許しをいただかなければなりません。
……今夜のお食事の際に、閣下へお願いしてみてはいかがでしょう」
「うん!」
元気よく返事をして走り去るフェイ。
その後ろ姿を見送りながら、エマは口元に手を当てて小さく頬を緩めた。
(閣下とお二人で街へ……。
それはもう、初めての『デート』ではありませんか)
夕食。
広大な食堂の長いテーブルには、いつものように温かな料理が並んでいた。
料理長渾身の皮がパリパリに焼かれたローストチキンに、ふかふかの焼き立てパン、野菜がたっぷり溶け込んだ温かなスープ。
食事が終盤に差し掛かった頃。
フェイはスプーンをコトリと置き、意を決したようにルシウスを見つめた。
「ルシ」
透き通るようなマリンブルーの瞳に真っ直ぐ見つめられ、ルシウスはナイフの手を止めて静かに視線を返す。
「……なんだ」
「お願いがあるの」
「言ってみろ」
フェイは、テーブルから身を乗り出すようにして、嬉しそうに言った。
「街に行きたい!」
瞬間、食堂の空気がピタリと静まり返る。
ルシウスは表情一つ変えず、淡々と問い返した。
「なぜだ」
「行ったことないから」
「必要ない」
一切の迷いのない、即答だった。
魔導宮の外は、死にゆく灰色の世界だ。
治安も悪化し、危険が溢れている。
純粋すぎる彼女を連れ出す合理的な理由など、彼の中には一つもなかった。
フェイは、少しだけ頬を膨らませた。
「でも……」
そして、何の気なしに、純粋な好奇心だけで言葉を紡ぐ。
「ルシが、守ってきた世界を見たいの」
――その一言に。
ワイングラスへ手を伸ばしかけていたルシウスの動きが、完全に止まった。
食堂に、先ほどよりもさらに重く深い沈黙が落ちる。
壁際で控えているカシアンも、エマも、息を呑んで主の横顔を見つめた。
何百年も孤独に罪を背負い、誰からも感謝されることなく、ただ世界を延命させるためだけに生きてきた男。
「自分が壊した世界」だと責め続けてきた彼にとって、フェイのその無垢な言葉がどれほどの殺傷力を持っていたか。
フェイは、そんな周囲の緊張など露知らず、真っ直ぐにルシウスを見つめ続けている。
その瞳には、彼が守った世界を知りたいという好奇心と信頼しかなかった。
数秒後。
ルシウスは、深く、長いため息を静かに吐き出した。
「……分かった」
フェイの顔が、一気に太陽のように明るくなる。
「本当!?」
「ああ」
ルシウスは少しだけ顔を背け、平坦な声で付け加えた。
「ただし、私も同行する」
「やったぁ!!」
フェイは椅子から飛び上がり、バンザイをしてその場で何度もくるくると回った。
その微笑ましい様子を見守りながら、壁際の使用人たちは、それぞれ密かに心の中で思っていた。
エマ。
(初めてのお出掛けですわ……どんなお洋服を着せましょう)
料理長。
(お外で食べるお弁当を、最高の腕を振るって用意せねばなるまい)
庭師。
(お帰りの際に、お疲れ様の花束でもお渡ししましょうか)
司書。
(街の歴史や名所の案内書を、事前にお貸しした方がよろしいでしょうか)
そして。
カシアンだけが、完璧な姿勢で静かに紅茶を飲みながら、極めて冷静に分析していた。
(……閣下は『視察』、お嬢様は『社会見学』のおつもりなのでしょうが。
我々周囲の人間からすれば、どう見ても『初めてのデート』にしか見えませんね)
翌朝。
フェイは夜明け前からパッチリと目を覚まし、まだ外が薄暗いというのに、ベッドから抜け出して何度も窓の外を背伸びして眺めていた。
(どんなところかな。どんな人がいるのかな)
胸を高鳴らせ、初めて見る「ルシウスが守り続けてきた世界」の景色を想像する。
この一日がフェイにとって初めて
「純粋な善意だけでは決して救えない、残酷な現実」と真正面から向き合う日になることを。
窓ガラスに額をくっつけて笑うこの時の彼女は、まだ知る由もなかった。




