第26段階:眠る少女と、初めての恐怖
フェイを寝室の柔らかいベッドへ静かに寝かせた後。
エマが濡れた衣服の着替えを始めるため、ルシウスとカシアンは一歩部屋を出た。
重厚な木の扉が、静かに閉まる。
冷え切った廊下には、ルシウスとカシアンの二人だけが残された。
長い、重苦しい沈黙が降りる。
先に口を開いたのは、カシアンだった。
「……閣下」
ルシウスは答えない。
「本日のお嬢様の魔法。……どう、お考えでしょう」
ルシウスは、窓の外で猛威を振るう吹雪を見たまま、ひどく冷たく、静かな声で答えた。
「予想以上だ。生命力を……他者へ譲渡していた」
カシアンの端正な眉が、苦渋に寄せられる。
「やはり」
「本人は、自覚していない」
「…………」
「しかも、無意識だ」
再び沈黙が落ちる。
荒れ狂う吹雪が、窓硝子を叩く音だけが廊下に響いていた。
ルシウスは、外套の下で静かに、ギリリと拳を握り込んだ。
「……使えば使うほど、命は減る」
その一言で。
カシアンの表情が、完全に凍りついた。
「閣下……まさか。はい」
ルシウスは、静かに目を閉じた。
「今日、猫へ渡した生命力は微量だ。しかし、回数を重ねれば」
その先は言わなかった。
言う必要もなかった。
カシアンは、何百年もルシウスの補佐をしてきた男だ。その先の残酷な結末を、瞬時に理解してしまった。
(寿命が……縮む)
ルシウスは小さく頷いた。
「だから今後、生命魔法の使用は禁止する」
「…………」
「少なくとも、私があの力の全貌を理解するまでは」
神殺しの魔導王が抱いた、初めての「恐怖」。それは自身の死や世界の崩壊に対してではなく、たった一人の無垢な少女が、その優しさゆえに擦り切れて消えてしまうことへの恐怖だった。
カシアンは、深く首を垂れ、静かに一礼した。
「……畏まりました」
その時だった。
コンコン。
背後の扉が小さく叩かれた。エマだった。
「閣下、お嬢様がお目覚めです。……それと、第一声が」
ルシウスが振り返ると、エマは少し困ったように、けれどひどく愛おしそうに笑った。
「『猫さん、ご飯食べた?』でした。
ご自分のことではなく、猫の心配ばかりでございます」
その言葉に、カシアンはたまらず苦笑した。
ルシウスは、小さく息を吐き出した。
「……らしいな」
返した言葉は、その一言だけだった。
だが、ほんの少しだけ。冷たく凍てついていた紫水晶の瞳が、確かに柔らかく細められていた。
コンコン。
「入る」
ルシウスは返事を待たずに、静かに部屋へ入った。
広いベッドの上では、清潔な寝着に着替えたフェイが、上半身だけを起こしていた。エマが背中の後ろにふかふかの枕を整えている。
フェイはルシウスの姿を見るなり、ぱぁっと花が咲いたように笑った。
「ルシ! 猫さん、ご飯食べた?」
生死の境を彷徨い、魔力も生命力も限界まで使い果たしたというのに、本当に第一声がそれだった。
ルシウスは数秒だけ沈黙し、答えた。
「食べた。料理長が世話をしている」
フェイは、心底安心したようにふぅっと胸を撫で下ろす。
「よかったぁ」
それを見て、ルシウスはベッドの横まで歩み寄り、フェイの白い額へ大きな手を当てた。
「熱はない」
そのまま細い手首を持ち、脈を測る。さらに内側に流れる魔力の波長を慎重に確認する。
「……魔力は回復している」
フェイは、不思議そうに首を傾げた。
「私、寝ちゃってた?」
「ああ。半日だ」
「えっ、そんなに?」
「生命力を使ったからだ」
「え?」
フェイは瞬きを繰り返す。
「せいめいりょく?」
本人は、自分が何をしたのか全く分かっていなかった。
ルシウスはそこで、命を削る危険性を論理的に説明しようとして……やめた。
(まだ、理解できないだろう)
そう判断した。純粋な優しさで動く彼女に、代償の残酷さを説いても混乱させるだけだ。
「今後、無茶は禁止だ」
ルシウスは、有無を言わせぬ強い口調で命じた。
しかし、フェイは納得のいかない顔をする。
「でも、猫さんが……」
「禁止だ」
「困ってる人がいても?」
「……」
ルシウスは、言葉に詰まった。
フェイは、逃げ隠れのない、真っ直ぐな瞳でルシウスを見つめ返す。
「見捨てられない」
その純真な一言で。
世界最強の男は、完全に負けた。
ルシウスは、本日一番の長いため息を吐き出した。
「……なら、必ず私を呼べ」
フェイの顔がパッと明るくなる。
「うん! 約束!」
フェイは、右手を出して小さな小指を立てた。
ルシウスは、その突き出された指を見て固まる。
「……?」
「約束するときは、こうするの」
ルシウスには、全く意味が分からなかった。魔法の契約陣か何かだろうか。
背後で控えていたエマが、クスクスと笑い声を漏らす。
「閣下、指切りでございますよ」
「……」
ルシウスは数秒だけ真剣に悩み、やがて、極めてぎこちない動作で自分の大きな小指を出した。
フェイは嬉しそうに、ルシウスの指に自分の指をしっかりと絡める。
「約束! 一人で無茶しない! 呼ぶ! ルシ、来て!」
「……ああ」
指を離すと、フェイはふと首を傾げた。
「でも……どうやって呼べばいいの?」
ルシウスは少し考え込んだ。確かにその通りだ。
長距離魔導通信は、魔導宮の結界内でしか使えない。今日のように結界の外へ出てしまえば、声は届かない。
「……カシアン」
「はい」
廊下にいたカシアンがすぐさま入室する。
「通信魔導具はあるか」
「ございます」
カシアンは懐から、掌サイズの透明な水晶を取り出した。
「通常は、軍の部隊長クラスが携行する魔導通信石でございます」
フェイは身を乗り出して興味津々に見つめる。
「綺麗!」
しかし、ルシウスは首を横に振った。
「大きすぎる。重い。君には向かない」
そう言うと、ルシウスはカシアンから水晶を受け取り、右手で包み込んだ。
無属性魔法を発動する。
掌の中で、硬い透明な水晶がまるで氷が溶けるように静かに縮み、形を変え始めた。
やがてルシウスが手を開くと。
そこには、澄み切った水色の光を宿す、小さな雫のような結晶があった。
ルシウスは、どこからか取り出した銀色の細い鎖をその結晶に通し、美しい首飾りに仕立て上げた。
「これを持て」
フェイは、両手でそっとそれを受け取る。
「ネックレス?」
「ああ。私の魔力と繋いだ。君がこれに魔力を流せば、君の場所が私に分かる」
「え! どこにいても?」
「ああ。私は行く」
フェイの顔が、太陽が昇ったようにぱあっと明るくなる。
「すごい! ルシが?」
「ああ」
「一瞬で?」
「ああ」
フェイは、水色の雫のネックレスを、大事そうに両手で胸へ抱き締めた。
「宝物!」
満面の笑みを向けられ、ルシウスは居心地が悪そうに少しだけ視線を逸らした。
「……失くすな」
「うん!」
世界を滅ぼすほどの力を持つ男が、ただ一人の少女の呼び声に応えるためだけに作った、小さな契約の証。
エマとカシアンは、その微笑ましいやり取りを見守りながら、ひどく温かく、優しい眼差しを向けていた。




