第25段階:帰る場所
魔導宮の広大な玄関ホール。
何もない大理石の床の上に、紫色の精緻な転移魔法陣が静かに広がり、ルシウスたち一行が姿を現した。
「フェイ様!」
待ち構えていたエマが、思わず悲鳴のような声を上げる。
急な寒波で腰痛を悪化させ、自室で寝込んでいたはずの彼女は、どこから持ってきたのか太い杖まで突いて、真っ先に玄関へと駆けつけていた。
その後ろには、エプロン姿の料理長、泥のついた長靴の庭師、初老の司書、女中たち、執事たち。
魔導宮に残るすべての者が、仕事も放り出して不安そうな表情で主と少女の帰りを待っていたのだ。
ルシウスの外套に包まれたフェイの無事な姿を見た瞬間。
ホールにいる全員から、深い安堵の息が漏れた。
「ご無事で……」
エマの目には、大粒の涙が浮かんでいた。
しかし、その安堵も束の間だった。
ルシウスの腕の中で微睡んでいたはずのフェイは、転移の気配で目を覚ますと、すぐさまルシウスの腕から降りて、彼が抱えていた母猫を真っ先に抱き直した。
「エマ!」
自分の限界などとうに超えているはずの小さな身体で、必死に訴えかける。
「この子、お願い!まだ痛いんだって!
寒いと、辛いから……!」
命を削るほど疲れ切った自分の身体のことなど、彼女はまるで気にも留めていない。
エマは杖を放り出し、優しく微笑みながら、血塗れの母猫をそっと受け取った。
「大丈夫ですよ。
暖かいお部屋を、既にご用意しております。子猫ちゃんたちも一緒です」
料理長もすぐ横へ現れ、力強く頷く。
「子猫用の山羊乳は、すでに厨房で温めてございます。
獣医術の心得がある者も呼んでおりますので、どうかご安心ください」
フェイは、使用人たちの完璧な言葉を聞いて、ようやく心底ほっとしたように胸を撫で下ろした。
「よかったぁ……」
――その瞬間だった。
張り詰めていた緊張の糸が、プツリと切れたように。
ふらり。
フェイの小さな身体が、糸の切れた操り人形のように前へ傾いた。
「フェイ様!」
エマが慌てて駆け寄ろうとする。
しかし、その前に
ルシウスが音もなく動き、崩れ落ちるフェイの身体を静かに、そしてしっかりと抱き留めた。
「ルシ……」
見上げるフェイの瞳は、今にも重い瞼が閉じそうだった。
ルシウスは何も言わず、彼女の冷たくなった額へ、大きな手を優しく添える。
「今日は、よく頑張った」
それは、かつて神々を震え上がらせた魔導王のものとは思えないほど、驚くほど穏やかで、温かな声だった。
フェイは、その言葉に安心したように、ふにゃりと微笑む。
「猫さん……助かる?」
「ああ」
ルシウスは静かに、しかし絶対の保証を込めて頷く。
「皆で、助ける」
その返事を聞いたフェイは、小さく「……うん」とだけ答えた。
そして、ルシウスの胸に顔を埋め、今度こそ完全に、深く静かな眠りへと落ちていった。
ホールが、水を打ったように静まり返る。
誰も、主の放つ静謐な空気を邪魔すまいと口を開かなかった。
カシアンだけが、フェイの無防備な寝顔と、彼女を抱き抱えるルシウスの顔を交互に見つめ、小さく呼び掛けた。
「……閣下」
ルシウスは、腕の中で眠るフェイから視線を外さないまま、ひどく低い声で答えた。
「……生命力を消耗している。
おそらく、本人にその自覚はない。しばらく、絶対の安静が必要だ」
その言葉の重みに、カシアンは表情を引き締め、静かに深く頷いた。
「……承知いたしました」
ルシウスはフェイを大切に抱き上げたまま、ゆっくりと歩き出す。
そして、周囲で控える使用人たちへ向けて、的確な指示を飛ばした。
「エマ」
「はい」
「今夜はフェイの部屋で休め。容態に少しでも変化があれば、すぐ私を呼べ」
「畏まりました」
「料理長」
「はい」
「消化が良く、滋養のある夕食を。彼女が起きたらすぐに食べられるよう、常に準備しておけ」
「お任せくださいませ」
「庭師」
「はい」
「猫たちの寝床を、花園の温室へ移せ。母猫が自力で歩けるようになるまで、魔導宮で保護する」
「承知いたしました。すぐに手配を」
短い、しかし一切の無駄がない指示だけで、魔導宮の全員が一斉に己の役割を果たすべく動き出す。
ルシウスは、眠るフェイを腕に抱いたまま、二階へと続く大階段をゆっくりと上がっていった。
その大きく、頼もしい主の背中を見送りながら。
料理長が、エプロンで目頭を押さえてぽつりと呟いた。
「……閣下は、本当に変わられましたな」
エマは、フェイが着ていた濡れた上着を大切に抱きしめながら、優しく微笑んで頷く。
「ええ」
「お嬢様が来られてから、この広すぎる魔導宮には……
また『帰る場所』という温もりが、戻ってまいりました」
外の世界では、依然として命を奪うような猛吹雪が荒れ狂っている。
しかし、かつて絶望と静寂だけが支配し、冷え切っていた魔導宮には
暖炉の火だけではない、人と人が寄り添い合う確かな温かさが
静かに、そして力強く灯り始めていた。




