第24段階:帰還と、静かなる誓い
ルシウスは静かに目を閉じた。
次の瞬間、猛吹雪の吹き荒れる雪の上に、紫色の巨大で精緻な魔法陣が展開される。
魔法陣から幾重もの光の輪が波紋のように広がり、遠く離れた魔導宮全域へと強大な魔力が接続された。
それは、魔導宮の主であるルシウスと、彼に仕える者だけが使用を許される、限定的な長距離魔導通信。
「総員、聞け」
静かな声だった。
しかし、その声は吹雪の中で血眼になって捜索を続けていた全使用人の脳裏へ、寸分違わず直接響き渡る。
庭師、料理長、図書館司書、女中たち、執事たち。
そして魔導宮に残るすべての者が、主の声に一斉に足を止めた。
「フェイを発見した」
その一言で、魔導宮全体に深い安堵の空気が波のように広がる。
しかし、ルシウスは矢継ぎ早に言葉を続けた。
「負傷者あり。母猫一匹、子猫数匹を保護する。
全員、直ちに魔導宮へ帰還しろ。
……医務室及び客室の一室を隔離。暖炉を最大出力で使用し、室温を維持しろ」
「料理長」
少し間を置く。
「消化の良い温かい食事を。子猫には温めた山羊乳を。猫用の寝床も用意しろ」
『……! し、承知いたしました!』
通信の向こう側から、完全に想定外の指示に驚きつつも、すぐさま鍋を叩き起こすような料理長の慌てた声が返ってくる。
「エマ」
『はい、閣下』
「フェイの着替えと寝具を。温浴の準備も頼む」
『かしこまりました』
「以上だ」
用件だけを伝え終えると、足元の紫の魔法陣が静かに雪の中へ溶けて消えた。
再び、猛吹雪の音だけが森を包み込む。
少し後ろで控えていたカシアンは、小さく息を吐き出した。
(さすがは閣下……)
フェイを見つけたわずか数秒の間に、帰還後の医療、食事、環境、すべての段取りが完璧に整えられてしまった。世界最高の頭脳は、今や迷子の保護において遺憾なく発揮されている。
フェイは血まみれの母猫を抱いたまま、ぽかんとしてルシウスを見上げた。
「ルシ。今の、みんな聞こえてたの?」
「ああ」
「便利!」
フェイは素直に感心し、無邪気に笑った。
その泥と涙で汚れた笑顔を見て、ルシウスは小さく頷く。
「帰るぞ」
「うん!」
フェイが元気よく一歩、雪を踏み出した。
しかし。
その瞬間。ふらり、と、フェイの小さな身体が静かによろめいた。
「……あれ?」
一歩。
二歩。
足元が急に、鉛のように重くなった。
視界が少しだけぐらりと揺れる。
「なんか……」
抱えていた母猫を落とさないよう、フェイはぎゅっと抱き締めた。
「力が……」
ルシウスは、即座にフェイの隣へ音もなく移動した。
「フェイ」
彼が名を呼ぶより早く、フェイの膝がカクンと折れる。
雪へ倒れ込む――そう思った瞬間。
黒い外套に包まれた大きな腕が、その小さな身体をしっかりと支え止めた。
「……ルシ」
「歩けるか」
フェイは、困ったようにへへっと笑う。
「歩けるよ」
そう答えたものの、彼女の細い足には、もはや雪の上に立つ力すら残っていなかった。
ルシウスは何も言わず、フェイの腕から母猫をそっと受け取った。
そして、空いた片腕でフェイの身体を羽毛のように軽々と抱き上げた。
「えっ」
急に視界が高くなり、フェイは目を丸くする。
「ル、ルシ?」
長身の魔導王は、片腕で少女を抱き、もう片方の腕で母猫を抱えるという、極めて不器用で過保護な体勢のまま言い放つ。
「猫は私が運ぶ。君は歩くな」
フェイは目をぱちぱちと瞬かせた。
「でも……重いよ?」
「命令だ」
有無を言わせぬ、淡々とした声だった。
それ以上言い返せず、フェイは小さく「……うん」と頷き、おとなしくルシウスの腕の中に収まった。
ルシウスが右手を上げると、猛吹雪を押し返すように半透明の強固な魔力障壁が広がり、一行を安全に包み込む。
「行くぞ」
カシアンは、三人の歩みを進める主の斜め後ろを歩きながら、その横顔を静かに見つめていた。
(閣下は、既にお気付きになられたのだ。フェイ様が急激に消耗した理由を)
あの光は、ただの治癒魔法ではない。
自らの内に宿る「生命力」そのものを相手へ分け与えるという、魔導の常識では説明のつかない、あまりにも優しく、あまりにも残酷な魔法だった。
ルシウスは、腕の中のフェイへ静かに視線を落とす。
彼女は吹雪の冷たさから解放され、ルシウスの体温に安心したのか。吹き荒れる風の音を子守歌にするように、ゆっくりと重い瞼を閉じ始めていた。
「眠い……」
「寝ていい」
「……うん」
フェイは、ルシウスの広い胸へ小さく額を預け、そのままコクリと眠りに落ち、静かな寝息を立て始めた。
ルシウスは何も言わない。
ただ、自らの命を削って他者を救ったその細い身体を、落とさないように少しだけ抱く力を強めた。
(生命力を……他者へ渡している。しかも本人は、その自覚すらない)
極寒の空を見据える紫水晶の瞳が、静かに、そして鋭く細められる。
(……これ以上は、使わせられない)
神を殺し、世界を壊し、誰も救うことのできなかった数百年間。
その果てにようやく見つけた、たった一つの温かな光。
吹雪の中、世界最強の魔導王は、眠る少女の重みを腕に感じながら。
誰にも聞こえないほど小さく、心の中で深く誓った。
「今度こそ、私が守る」




