第17段階:届かない命
フェイが五大属性魔法の基礎を習得してから、およそ二ヶ月。
彼女がこの魔導宮へやって来て、九ヶ月が経とうとしていた頃のことである。
その日の朝は、吐く息が白く染まるほど冷え込んでいた。
窓の外には重苦しい鉛色の雲が低く垂れ込め
庭の手入れをしていた庭師は「今夜は大雪になりますな」と灰色の空を見上げて呟いていた。
食堂には、いつものように温かな朝食が並べられていた。
ふかふかの焼きたてパン
とろけるようなスクランブルエッグ
香ばしくカリカリに焼かれた分厚いベーコン
野菜がたっぷりと溶け込んだ温かなスープ
そして、甘酸っぱい木苺のジャム。
「今日も美味しい!」
フェイは満面の笑みで朝食を平らげると、カップに注がれた温かいミルクをごくりと飲み干し、勢いよく椅子から立ち上がった。
「図書館、行ってくる!」
元気よくそう言い残し、軽い足取りで廊下を駆けていく。
「行ってらっしゃいませ」といつもなら笑顔で見送るエマは、この日は急激な寒波の影響で持病の腰痛を悪化させ、自室で休んでいた。
侍女も付けず、フェイを一人で歩かせるのは珍しいことだったが、行き先は安全な魔導宮内の図書館である。
ルシウスも含め、誰も心配はしていなかった。
ルシウスもまた、いつものように書斎で静かに執務を続けていた。
しかし、正午。
昼食の時間になっても、フェイは食堂へ戻って来なかった。
「……今日は珍しいですな」
料理長が、冷め始めたスープの鍋を見つめて首を傾げる。
カシアンは懐中時計を確認し、短く指示を出した。
「司書へ確認を」
数分後。
初老の司書が、血相を変えて報告に現れた。
「十一時半頃でございます。『食堂へ戻るね』と笑って、確かに図書館を出られました」
「……戻っていないのか」
「はい」
その瞬間だった。
窓の外へ、白いものが舞い始めた。
今年初めての雪。
それは風花などという生易しいものではなく、大粒の氷が混じった容赦のない雪だった。
「始まりました……」
窓辺に立った庭師が、青ざめた顔で空を見上げる。
風は急速に強まり、灰色の空から雪が勢いよく降り注ぎ始める。
「このままでは、夕方には吹雪になります」
カシアンの表情が、僅かに険しくなった。
「館内の確認は」
「既に」
執事長が即座に答える。
「図書館、厨房、庭園、温室、訓練場、礼拝堂、客室……全て確認済みです。
お嬢様は、どこにもおられません」
重い静寂が、魔導宮に落ちた。
ルシウスは、手元の書類からゆっくりと顔を上げた。
その紫水晶の瞳は、凪いだ水面のように恐ろしいほど静まり返っている。
ルシウスは再度、カシウスに確認を取る。
「最後に目撃された場所は」
「図書館です」
「その後は」
「……不明、です」
窓の外では、雪がさらに勢いを増していた。
今年一番の寒波。
日が暮れる頃には完全な猛吹雪となり、視界も、体温も、瞬く間に奪われるだろう。
ルシウスは、静かに立ち上がった。
「総員」
その一言だけで、魔導宮全体の空気がビリリと凍りついた。
「捜索を開始する」
誰も聞いたことのないほど、ひどく静かな声だった。
しかし、その声には絶対的な力が宿っていた。
怒りでも焦りでもない、世界を従えさせる神殺しの凄みが。
使用人たちは一斉に頭を下げ、防寒具を掴むと、瞬く間に城中へと散っていった。
一方、その頃。
フェイは、魔導宮から少し離れた立ち枯れた森の外れにいた。
図書館から食堂へ戻る途中。
窓の外、雪が積もり始めた林の奥から、微かに聞こえた小さな鳴き声。
「……みぃ」
気になって外へ飛び出し、足跡を辿って林へ足を踏み入れたフェイが見たものは
血を流して雪の上に横たわる母猫と、その冷えゆく体にすがりついて震える、三匹の小さな子猫だった。
そして、息も絶え絶えの母猫へ向かってゆっくりと牙を剥きながら近付く、一頭の巨大な狼。
「だめっ!」
フェイは咄嗟に風魔法を放った。
鋭い突風が狼の巨体を吹き飛ばす。
続けて、牽制のために火球を地面へと撃ち込んだ。
雪が弾け、炎が上がる。
予想外の反撃に警戒した狼は、忌々しげに牙を鳴らし、森の奥へと姿を消した。
「大丈夫!?」
フェイはすぐさま母猫へ駆け寄り、雪の上に膝をついた。
しかし、その腹部は獣の爪によって深く裂かれ、白い雪を痛ましいほど赤く染め上げていた。
子猫たちが、母の顔を必死に舐めている。
「どうしよう……」
フェイの頭の中で、これまで習得した五大属性の魔法が駆け巡る。
風。火。水。土。雷。
どれを使っても、土を育て、水を撒き、火を灯すことはできても、損なわれた肉体を繋ぎ合わせ、流れる血を止めることはできない。
五大属性は、現象を操る力。
生命そのものを癒やす魔法ではないのだ。
フェイは、震える両手で母猫の傷口をそっと押さえた。
「大丈夫だから……頑張って……」
フェイの優しく切実な声に呼応するように、彼女の奥底で眠る理外の魔力が微かに漏れ出し、傷口から流れる血がほんの僅かだけ遅くなる。
だが、それ以上は変わらない。
生命の喪失を完全に押し留めることはできなかった。
指の隙間から、温かい命がこぼれ落ちていく。
「お願い……」
フェイの大きな瞳に、ボロボロと涙が滲んだ。
「助かって……!」
その時だった。
雪に覆われた森の奥から。
グルルルル……。
地を這うような低いうなり声が響いた。
一頭ではない。
二頭。三頭。四頭
・・・いや何頭いるかも分からないほどの群れだ。
先ほど追い払われた狼が。
今度は群れの仲間を率いて、飢えた緑色の瞳を光らせながら、ゆっくりと雪の中から姿を現した。
フェイは弾かれたように立ち上がり、母猫と子猫たちを背中で庇うように両手を広げた。
その瞳に、涙は溜まっていたが、恐怖の色はない。ただ、ギリリと唇を噛み締め、強い焦りが浮かんでいた。
(戦える)
ルシウスに叩き込まれた魔法がある。群れが相手でも、今のフェイなら追い払えるはずだ。
(でも……この子たちを守りながらじゃ……!)
背後の猫たちに魔法の余波を当てずに、四方向から迫る飢えた獣を同時にさばき切れるか。
白く降り積もる死の雪の中。
狼たちが一歩、また一歩と、確実な殺意を持って距離を詰めてくる。
そして同じ頃
魔導宮からは、ルシウスを先頭にした捜索隊が
猛烈な吹雪の中へ、フェイの僅かな痕跡を求めて飛び出していた。




