第15.5段階:語られなかった戦争 From:カシアン
カチャリ、と。
分厚い書斎の扉が、静かに閉まる。
カシアンは無人の廊下に立ったまま、細く、長く息を吐き出した。
扉の向こうからは、フェイの弾むような笑い声が微かに漏れ聞こえてくる。
『ルシ、もう一個食べて』
穏やかな午後だった。
灰色の雪が降るこの死にゆく世界で、魔導宮にこんなにも温かな光景が訪れるなどと、一体誰が想像しただろうか。
数百年前。
あの男が、絶対的な存在である神々に剣を向けた日。
カシアンは静かに目を閉じた。彼の意識は、分厚い氷の底に沈むような遠い昔へと引き戻されていく。
あの日。
神々は、人類へ向けて無慈悲な最後通告を告げた。
『人は知恵を持ちすぎた。
欲を知り、争いを知り、自然を壊し、命を玩ぶ。
このままでは世界そのものが滅びる。
故に、人類を終わらせる。そして世界をやり直す』
それが、絶対者たる神々の結論だった。
しかし、人類側にも当然、退けない理由があった。
愛する家族がいた。
未来を繋ぐ子がいた。
何代にもわたって守り抜いてきた故郷があった。
神の御心であろうとも、誰一人として、自ら滅ぼされることなど受け入れる者はいなかった。
だから、戦ったのだ。
その絶望的な戦線の最前線に立ったのが、若き日のルシウスだった。
当時、すでに人類最強の魔導師として名を馳せていた彼は、世界中の魔導師たちを束ね、先陣を切った。
現在この魔導宮で穏やかに働く料理長も、庭師も、執事長も。
そして、補佐官であるカシアン自身も。
皆が皆、あの方の孤独で力強い背中を追って、血と泥に塗れた戦場へと向かったのだ。
後世に語り継がれるような、美しい英雄譚などではない。
ただひたすらに「生きるため」だけの、泥臭く凄惨な戦争だった。
結果として、人類は神々を討ち果たした。
絶対者を退け、世界は救われた。
誰もがそう信じて疑わなかった。
……ほんの数日だけは。
異変は、神の死の直後からすぐに始まった。
世界中の霊脈が急激に弱り始めたのだ。
緑豊かだった森は枯れ落ち、満々と水を湛えていた湖は干上がり、あろうことか、空そのものに修復不能な亀裂が走った。
その絶望的な異変に、世界で最も早く気付いたのは、他でもない閣下だった。
昼も夜もなく古文書を読み漁り、崩壊し始めた世界中を巡り、神々の遺した遺跡を調べ続けた。
そして、誰よりも早く、あまりにも残酷な真実へ辿り着いてしまったのだ。
――神々は、世界を支える「柱」でもあった、という事実に。
人類は、勝った。
しかし、世界そのものは敗北していた。
生き残るために払った代償は、この星の寿命そのものだったのだ。
それ以来、閣下は数百年間。
誰に言い訳をすることも、誰を責めることもなく
ただ一人で、泥をすするような思いで世界を延命させる方法だけを探し続けてこられた。
誰よりも長く。
誰よりも、孤独に。
カシアンはゆっくりと目を開け、静かに書斎の扉を見つめた。
その向こうでは、フェイの楽しそうな声が、悲惨な過去など知らない無垢な響きで聞こえてくる。
『ルシ、この色かわいい。半分こする?』
その甘く優しい声を聞きながら、カシアンの端正な口元に、自然と小さな微笑みが浮かんだ。
(……閣下。あなたは今日も、ご自分だけを責め続けておられる)
カシアンは胸の内で、敬愛する主へと語りかける。
(ですが。あのお嬢様だけは……きっといつか、あなたを『赦す』のではなく。あなた自身が、ご自分を赦せる日を連れて来てくださるのでしょう)
カシアンは静かに踵を返した。
彼らの穏やかな時間を邪魔しないよう、足音一つ立てずに廊下を歩き出す。
背後の書斎からは、フェイの明るい笑い声が
いつまでも優しく、暖かな春の陽だまりのように響き続けていた。




