第15段階:マカロンと、語られない過去
土属性の授業を終えたその日の午後三時。
死にゆく灰色の世界に建つ魔導宮にすっかり定着した、穏やかなティータイムの時間がやってきた。
静寂に包まれた書斎で、ルシウスはいつものように執務机に向かい、書類に目を通していた。
普段であれば、カシアンかエマがワゴンと共に静かに現れる時間だ。
しかし、今日叩かれた扉の音は、いつもより少しだけ低く、遠慮がちだった。
コンコン、と。
「入れ」
ルシウスが短く応じると、重厚な扉がゆっくりと開いた。
そこに立っていたのは、銀色のティーワゴンを両手でしっかりと握りしめたフェイだった。
彼女は少し得意げな表情を浮かべながら、慣れない手つきで慎重にワゴンを書斎の中央へと進めてくる。
今日のお菓子は、色とりどりのマカロンだった。
淡いピンク、レモン色、ミントグリーン、ラベンダー、そして空色。
丸くて可愛らしい焼き菓子が、まるで宝石箱のように美しく銀の皿の上に並べられている。
フェイはルシウスの机の傍らでピタリとワゴンを止めると、えっへんと少し胸を張って言った。
「今日は私がお手伝い!」
聞けば、エマと料理長から給仕の作法を教わってきたのだという。
マカロンをお皿に並べるところまでは自分でやらせてもらったこと。
でも、熱い紅茶を注ぐのはまだ危ないからと、最後だけはエマにお願いしたこと。
そんな舞台裏を、フェイは弾むような声で嬉しそうに語った。
ルシウスは何も言わず、静かにペンを置いて席を立った。
彼がソファへ腰を下ろすと、フェイも向かいの席にちょこんと座る。
二人だけの、静かなティータイムが始まった。
「これね、お花みたい。食べるの、もったいないなって思ったの」
フェイは自分の皿に乗ったピンク色のマカロンを見つめながら、初めてこのお菓子を見た時のことを話し始めた。
「でもね、料理長が言ってた。
『お菓子は、誰かに美味しく食べてもらうために作るんですよ』って、笑ってた」
フェイの何気ない言葉に、ルシウスは微かに頷きながら紅茶を一口飲んだ。
穏やかな、ひだまりのような時間が書斎を包み込む。
しばらくの間、二人はただお茶とお菓子の甘い香りを楽しんでいた。
やがて、少しの沈黙が流れた後。
フェイは両手で小さなマカロンを持ったまま、ふと顔を上げ、小さな声で尋ねた。
「……ねぇ、ルシ。今日のお昼のこと。ラグナロクって、何?」
その言葉が落ちた瞬間、書斎の空気が静かに、しかし決定的に変わった。
ルシウスはすぐには答えなかった。
持っていたティーカップをソーサーへ静かに置き、窓の外へと視線を向ける。
長い沈黙が降りた。
神を殺し、世界を壊したあの日。血と灰に塗れた記憶の蓋に手が掛かる。
しかし、フェイは急かすことも、不安がることもなく、ただルシウスの言葉を静かに待ち続けていた。
やがて、ルシウスは窓の外を見たまま、ゆっくりと、ひどく低い声で話し始めた。
「……昔、この世界には神々がいた」
彼が語ったのは、全貌ではない。自分が神を殺したという罪も語らなかった。
「神々と人類が、戦った。
……人類は勝ったのではない。ただ、生き残っただけだった。
その代償として、大地も空も、生命も、少しずつ死に始めた。」
かつての湖が干上がり、枯れた荒野になった理由。
そこまでだけを静かに語り終え、ルシウスは口を閉ざした。
フェイは、最後まで黙って彼を見つめていた。
そして、その小さな頭で少しだけ考えた後、悲しむでもなく、憐れむでもなく、ただありのままの事実を受け止めるように言った。
「じゃあ…みんな、ずっと頑張ってきたんだね」
ルシウスの紫水晶の瞳が、少しだけ見開かれた。
フェイは誰も責めなかった。
世界を滅ぼそうとした神々も、それに抗った人々も。
そして、結果的に世界を壊すことになったルシウスのことも。
善悪や勝敗ではなく、ただ「みんなが必死に生きようと頑張った」という事実だけを、彼女は無垢な心で肯定したのだ。
ルシウスは視線を戻し、静かに手を伸ばしてマカロンを一つ指で摘んだ。
それは、フェイが彼のお皿に選んで置いてくれた、空色のマカロン。
一口、口へと運ぶ。
サクッとした食感の後に、ほんの少し甘く、どこまでも優しい味が口いっぱいに広がった。
「……そうだ。皆、よく頑張った」
ルシウスは、フェイには聞こえないほど小さな声で、ぽつりと呟いた。
それは、数百年もの間、誰にも言えなかった彼自身の本心だった。
世界を背負い、たった一人で罪悪感という名の玉座に座り続けてきた男の、静かなる吐露。
その呟きの意味をフェイは知らない。
ただ、彼の表情がほんの少しだけ和らいだのを見て、安心したようにふわりと微笑んだ。
「ルシ、今日はもう一個」
フェイは立ち上がり、自分の皿からもう一つ、レモン色のマカロンをルシウスのお皿へそっと置いた。
ルシウスは何も言わず、その小さな甘い贈り物を受け取った。
窓の外では、フェイの魔力によって芽吹いた花々が風に揺れ、灰色の空の下に、確かな春の香りを静かに運んでいた。




