第10段階:初めての贈り物
数日後の昼下がり。
コンコン、と。
静寂に包まれた重厚な書斎の扉が、控えめに叩かれた。
膨大な魔術書から顔を上げたルシウスの視線の先で、扉が静かに開く。
入ってきたのは、メイドのエマだった。
日中のこの時間は、常に「観察対象」であるフェイに付き添っているはずの彼女が一人で現れたことに、ルシウスは即座に僅かな異変を察知した。
「どうした。フェイは?」
短く問う主人に対し、エマは穏やかに微笑みながら答えた。
「お嬢様は現在、食堂にいらっしゃいます」
そう言って、エマは廊下から一台の銀色のティーワゴンを静かに押し入れた。
ワゴンには、繊細な意匠が施されたティーカップと、湯気を立てる香り高い紅茶のポット。
そして、中央の純白の皿には、色とりどりの果実が宝石のように輝く美しい焼き菓子
――「宝石果実のタルト」が切り分けられ、綺麗に並べられていた。
エマはワゴンの前で丁寧に一礼して言った。
「フェイ様より、閣下へ届けてほしいとのことでございます。
フェイ様も現在、食堂で同じ物を召し上がっております」
ルシウスは、無言のままその色鮮やかな菓子を見つめた。
エマは少しだけ目を細め、慈しむような微笑みを深める。
「こちらのタルトには……フェイ様ご自身で、手を加えておられます」
エマがワゴンを執務机の傍らへ残し、一礼して部屋の隅へ控える。
ルシウスはペンを置き、目の前の小皿へ視線を落とした。
甘い物など、何百年も口にしていない。
神々との戦いが終わって以来、食事とはただ生命活動を維持するための魔力補給と同義であり、味覚を楽しむという行為自体が彼の辞書からとうの昔に消え失せていた。
一瞬だけ躊躇したルシウスだったが、フォークを手に取り、タルトの端を僅かに切り取って口へ運んだ。
――その瞬間。
ふわりと、舌の上で甘さが解けるよりも早く
フェイが持つ、理外の優しく温かな魔力の残滓がルシウスの超感覚に触れ、
菓子に込められていた「想い」が映像となって彼の脳裏へ直接流れ込んできた。
そこは、魔導宮の巨大な図書室だった。
フェイが、大きな机に広げた古い絵本や料理の専門書を夢中で眺めている。
ふと、彼女の手が止まった。
ページに描かれていたのは、色鮮やかな果実と艶やかな飴が乗った、宝石のように美しいお菓子の挿絵。
「これ、なぁに? すごくキラキラしてる! 宝物みたい!」
目を輝かせるフェイに、傍らで本の整理をしていた初老の司書ゼフィールが優しく答える。
『宝石果実のタルトというお菓子でございますよ。
とても甘く、食べると幸せな気持ちになれる、魔法のような食べ物です』
「幸せな気持ち……」
フェイは挿絵を食い入るように見つめ、パッと顔を上げた。
「この本、食堂に持っていっていい?」
司書ゼフィールが微笑んで頷くと、フェイは自分の身体の半分ほどもある厚い本を両手で大切そうに抱え込み、厨房へと向かって駆け出していった。
舞台は変わり、厨房。
息を切らして飛び込んできたフェイは、料理長へその本を突き出した。
「これ、作って!」
いつも厨房を覗きに来る小さな訪問者に、料理長は相好を崩した。
『もちろんでございますとも。腕によりをかけてお作りしましょう』
しかし、フェイは少しだけ困ったように眉を下げ、小さな声で言った。
「私も、作りたい」
料理長は驚き、優しく首を振った。
『厨房は火や刃物があり、危険でございます。お気持ちだけで十分ですよ』
それでも、フェイは本をぎゅっと抱きしめ、少し考えてから口を開いた。
「でもね。ルシに喜んでほしい」
食材を刻んでいた厨房の者たちの手が、ピタリと止まる。
フェイは、嘘のない、あまりにも純粋な表情で言葉を紡いだ。
「ルシね、いつも一人で食べるの。
食べてるのに、おいしくなさそう。
本にはね、おいしいと笑うって書いてあった。
でもルシ、笑わない…」
彼女は少しだけ照れたように俯き、けれど、はっきりとした声で言った。
「だから、笑ってほしい」
――その言葉に、初老の料理長は思わず目頭を押さえ、涙ぐんだ。
彼は力強く頷き、厨房の仲間たちへ向かって振り返った。
『……総員。我が宮の主と、愛らしきお嬢様のために。最高の一皿を作るぞ!』
『応!!』
厨房全体が、かつてないほどの熱気と活気に包まれて動き出す。
フェイも、料理長が用意した踏み台に乗り、自分にできる範囲で一生懸命に手伝った。
果実の飾り付けや、最後の甘い蜜を塗る仕上げ。安全な作業だけを任され、彼女は小さな手で、心からの祈りを込めるようにタルトを彩っていった。
ふっと、温かな映像が脳裏から溶けて消えた。
書斎に、再び静寂が戻ってくる。
ルシウスは、手に持ったフォークと、皿の上のタルトを静かに見つめた。
そして、もう一口。
さらにもう一口。
サクサクとした生地の食感、果実の瑞々しい酸味。
そして、何百年も忘れていた、どこまでも優しい甘さ。
気付けば、皿の上は完全に空になっていた。
「……閣下」
部屋の隅に控えていたエマが、微かに声のトーンを上げて呼んだ。
「何だ」
ルシウスは表情を変えずに振り返る。
「全部、召し上がられております」
エマの瞳には、明らかな喜びと、少しの揶揄いが混じっていた。
ルシウスは、手元の空の皿に視線を落とす。
少しだけ沈黙が流れた。
そして、世界最強の魔導王は、照れることも、下手な言い訳をすることもなく
極めて平坦な声でただ一言だけ告げた。
「……もう一つ、もらおう」
エマは待ってましたとばかりに、嬉しそうに深く微笑んだ。
「もちろん、ご用意しております」
ルシウスは静かな書斎で、温かい紅茶を口に含みながら
フェイが「笑ってほしい」と願って作ったお菓子を
ゆっくりと、大切に味わい続けた。
世界が死に向かい始めてから何百年もの間。
凍てつくように冷え切っていたこの書斎が、今日は少しだけ温かく感じられた。
その理由だけは、まだルシウス自身にも論理的に証明することができなかった。
けれど確かに、彼の極寒の氷に閉ざされていた心は
名もなき少女がもたらしたささやかな甘さによって
少しずつ、春へ向かって溶け始めていた。




