第99話:怯え
『……奴が動かないのがその証拠だ。さっき戦う前に、"その魔法には欠陥がある"ってはったりをかましたんだが、その時は歯牙にもかけない様子だった。けど、今の奴は俺を警戒し、そいつを信じ始めてる。つまり、あるってことだ……何かしらの傷が』
『た、確かに……』
『奴はそれを恐れてる……だから動けない』
『ええ……あ、だからアストさんさっき、"考え始めてくれた"って言ってたんですね』
『ああ……これでようやく、戦いに持ち込めた』
アストからすれば、ヘンリエッタに攻め続けられるという状況が最も厳しく、そして避けなければならないものであった。
実際、そうなる筈だったのだが、いつでも殺せると思っていたアストに、本気の魔術を防がれたことで、ヘンリエッタは彼の強さを認めてしまった。
その結果、本当に気づいているのかもしれないと、彼女はそう考え始めたのである。
「じっと止まって何を……やっぱり攻撃して……でも、また防がれたら……」
彼女の魔力とて、当然無限にある訳ではない。
まだ余裕はあるものの、さっきのような大魔術を何度も行使すれば、境界魔法の維持すら危うくなる。
かといって、小粒の魔術では仕留め切れない。
故に彼女は、どうしても慎重にならざるを得なかったのである。
「……まさか、本当に…………」
はったりとは、それを言った本人に、その言葉に見合うだけの実力がなければ成立しない。
当初は嘘だと見抜けたその言葉。
しかし今は、それが真実になり始めていた。
「わんこちゃんも出てこないしッ……」
姿を消したまま、一向に現れないケルベロスの存在もまた、彼女の行動を縛る一つの鎖となっていた。
空間固定を二度も解除されているという事実。
そして、その正体が分からない以上、うかつな行動は出来ないと判断した彼女は、アストの出方を見るという選択をとったのであった。
そんな彼女を見つめながら、アストは意味深に笑みを浮かべて見せる。
そうして牽制しながら、彼は頭の中でルシファーとの会話を続けた。
『問題は、その傷がなんなのかだが……ルシファー、奴の本体がいる異空間に行けると思うか?』
『う、うーん……バティンならあるいは……あ、でも対策してると思うんですよね……』
『だろうな……俺でもそうする』
本体がいるであろう異空間。
そこに直接乗り込めれば話は早いのだが、それをヘンリエッタが考えない筈はなく、二人もそれを理解していた。
『そもそも入り込めないようにしているか、入れたとしても何かを仕掛けているか……なんにせよ、現実的ではないかなと』
『ああ……となると、この世界と奴の繋がりから攻めるしかないな。まずはそれを探るとするか……』
『あの、私も行きましょうか? こっちはだいぶ落ち着いてきましたし』
『そうしてもらいたいところだが……お前がそこを離れると、数万の大軍が城へと押し寄せることになる。屍人の壁やバティンもいるし、サブナックも向かってはいるが……さすがに数が多すぎて抑えきれないだろう』
『あー……まぁ、今でもちょこちょこ動こうとしてますからねぇ……おっきいのは潰してますが』
『奴らにらは、もう暫く城を取り戻すことに集中していてもらいたい。その為に、わざわざジャバーを生かしておいたからな……もう一つの頭は潰したし、あいつが生きている限り、南方軍の意識は城へと向かう筈だ。こっちはこっちでなんとかする……お前はそっちの数をもう少し減らしておいてくれ』
『了解ですっ! でも、本当にやばかったら呼んでくださいね?』
『ああ……分かってるよ。じゃあな』
念話を切ったアストは、城を背に、夜空へ浮かぶ彼女を改めて見据える。
月夜の空には風が吹いていたが、彼女の青く長い髪も、その身に纏った白地のドレスのようなローブも、その一切が揺れていなかった。
「さて、どこまで信じたままでいてくれるか……」
アストは両手に魔力を宿らせ、一つ息を吐いた。
「ッ! 動いた……!」
それに反応し、ヘンリエッタもまた魔力を練り上げる。
そのまま両者は睨み合い、また一分程の時が流れたその時───
「消えッ……また隠遁……いや違うッ!」
高速で移動するアストの魔力反応に、ヘンリエッタは両手をその方向へと伸ばす。
だが、街の中を低空で飛行し、さらに目視出来ない程のその速さと、黒い装備で暗がりに紛れた彼に狙いが定まらない。
「このッ……舐めないでッ!」
下に突き出したその手から放たれる魔力が、自身の直下を中心とした半径約一キロの空間を固定し、さらに圧縮していく。
そして、彼女はすぐさまそれを解放した。
突如鳴り響く轟音とともに、再び街の一部が砕け散り、突き抜けた衝撃によって大量の煙が巻き上がる。
「くッ!? 反応がッ……!」
それを回避したアストは、即座に隠遁魔術を発動。
崩壊する街並みを背に、そのままヘンリエッタの背後に回り込むと、開いた右手を上空にいる彼女へと向けた。
「"光を閉ざすは暗き黒煙"」
「なッ……何!?」
突如視界が黒く染まり、彼女は暗黒の世界へと引き摺り込まれる。
「こ、焦げくさッ……もうッ!」
瞬時に上空へと転移した彼女は、そこから辺りを見渡す。
だが、やはりアストの姿は見えず、魔力の反応も見つからない。
「な、なんなの……なんなのよッ……」
早く仕留めて安心したいという焦燥感。
何をされるか分からないという恐怖心。
心の中に去来するそれらもまた、彼女にとっては初めての感情であった。
故に分からない。
それらをどう抑え、折り合いをつけ、上手く発露したらよいのかが。
「いっ……今さら目隠しなんてどういうつもりなのッ!? あーもう焦げ臭い……腐った匂いもこびりついて消えないしッ! なんなのッ!? コソコソ隠れて……嫌がらせのつもりッ!?」
それはまるで、子供が起こす癇癪のようであった。




