第100話:気づき
そんな彼女の真下にいたアストは、その様子には特段疑問を抱かなかったが、その言葉に興味を持ち、手を顎に当てて首を傾げた。
「熱も感じないし、焼けることもないが……匂いは感じる、ねぇ……」
アストが使ったものは、対象の周囲に高温の黒煙を発生させ、視界を奪ったうえで、身体の中から燻して焼き殺す魔術。
彼がこの魔術を使ったのは、高熱の空気を吸い込んだらどうなるのかを見る為であったが、彼女は痛みを訴えることも、咳き込むこともなく、声を荒げて喚き散らかしていた。
「ダメージだけが通っていない……で、腐った匂いってのは……あれか。サブナックの能力で死んだ兵士の匂いだな。それが残り続けてるってことは……まさか、こっちにあるのか……?」
異空間にあると考えていた彼女の本体。
だが、鼻に匂いがこびりついて消えないという匂いが、その考えに疑問をもたらす。
「この世界に在って、この世界にない……」
彼女が口にしたそれを、彼は反芻する。
そうして考える中で、彼は一つの仮説を立てた。
「視覚、聴覚……そして嗅覚……感覚だけが……常に、繋がっている……」
人が持つ、外の世界と繋がる為の感覚。
視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚。
総じて、五感と呼ばれるそれら。
現時点で、味覚は不明だが、この世界から干渉出来ない以上、触覚がないことは判明している。
「視覚と聴覚は分かる……必要だから残した。だが、嗅覚を常に繋げる意味…………いや、嗅覚だけじゃない。全てを切り離せなかったとしたら……待てよ……触覚以外は内部の……」
彼は、そこに鍵があると踏んだ。
そして、その時ふと、ある魔術を思い出す。
感覚に訴える、その魔術を。
「……まぁ、試してみるか」
アストは魔力を身に纏うと、上空で必死に自分を探す彼女へと向かって飛翔しながら、隠遁魔術を解除した。
「ッ! あなた……!」
「よぉ」
十数メートル程の距離を空け、両者は空中で対峙する。
アストが不敵な笑みを浮かべるのに対し、ヘンリエッタの眉間には、深い皺が刻まれていた。
「随分といい顔になったな。そっちの方が……まだ好みだぜ?」
「こ、このッ……!」
怒りに任せ、彼女は瞬時に魔力を練り上げると、彼の周囲にいくつもの空間魔術を解き放つ。
だが───
「くッ……!」
目の前で繰り広げられるその光景に、ヘンリエッタの表情がさらに歪む。
彼女の使う空間魔術は、転移、切断、固定、圧縮、解放と、その種類は多いが、発動手順は概ね同じ。
簡単に言えば、対象となる場所を指定し、そこに術式を組み込んだ魔力を流すことで、様々な効果をその空間に与える、というものであった。
つまり、基本的には魔力を放つまでがその工程であり、あとは事前に組み込んだ術式通りに効果が発動する仕組みである。
「うッ……うぅッ……!」
今度は彼女の口から、嗚咽にも似た声が漏れ始める。
だが、それも当然であった。
「なん……でッ……!」
今、彼女が連続して放ち続けている魔力には、切断と固定、その両方の術式がそれぞれ組み込まれていた。
放った魔力は、指定した場所に到達した直後、"切断"ならば直径三メートル程の空間を球体状に削り取り、"固定"ならば指定した場所を中心に、半径十メートル程の空間を停止させる。
仮に全てをかわしたとしても、固定した空間を圧縮し、さらに解放することで、先程と同様に強力な衝撃波を発生させてダメージを与えるという、通常ならば回避しようのない、まさしく理不尽な三段攻撃を彼女は繰り出していた。
だが───
「なんでッ……当たらないのよ……!」
いくら何をどう工夫して放とうが、その全てを───アストは余裕を持って回避し続けていたのである。
そもそも、彼女の空間魔術は事の起こりが読めない、非常に静かな魔術である。
故に、これまで対峙してきた相手は、彼女が魔術を発動したことにさえ気づかないまま、身体を抉られて死に絶えるのが普通であった。
だが、極限まで鍛えた"感覚強化魔術"により、彼の目には、彼女が空間を操る為に放った魔力が、全て鮮明に見えている。
さらに、切断と固定の違いすら見切り、切断の魔力は距離をとって回避し、固定の魔力のみを妖刀で断ち斬ることで、通常ならば紛れもない死地であるその場所で流麗に、そして華麗な舞を踊るかの如く、全てに対応していたのであった。
「……ッ!」
やがて彼女の手がだらりと落ち、それに呼応するようにアストの動きもまた止まった。
「気づいてるみたいだな……この刀の特性に」
彼女は答えず、ただ苦々しげな表情で彼をじっと見つめていた。
「確かにあんたの読み通り、こいつが魔術を斬れるのは、鞘から抜いた一振り目だけだ。だが、安く見てもらっちゃ困る。これは抜刀術と呼ばれる技術体系の一つで、"居合"という技でな……抜刀から納刀までが、一つの型となっている。完璧に使いこなせるまでは結構かかったよ。確か……百年くらいだったかな」
「……は? ひゃ、百年って……何を言っているの? 子供じゃあるまいし、どこまで私を馬鹿にすれば気が済むのかしら……?」
「馬鹿になんかしてない。事実だ。まぁ、何が言いたいかというと、さっきのならまだしも、その程度の魔術じゃ……俺は殺せないってことだ」
「そ、その……程度……?」
「あんたの魔術は確かに強力だが……大味過ぎるんだよ。端的に言えば、あんたのそれは対多数……要するに、軍を相手にすることに特化してる。だから、俺みたいな奴には届かない。簡単にかわせる。見切れる。そして斬れる……そもそも、何を焦っているのやら……無敵だと、神の力だと、そう語っていたくせに」
「ッ! ふ、ふふっ……そう……そうよッ! 私に攻撃は通らないッ! 残念ねぇ……いくら私の魔術をかわせても無意味なのよ! ああ、言っておくけれど、魔力切れなんて期待しないでよね? ……まだまだ私には余力がある。そして、私はあっち側の存在ッ……あなた如きでは、触れることすら叶わな───」
「……"狂え"」
パンッと、乾いた柏手の音が───鳴り響いた。




