第101話:反転
「…………えっ?」
直後、ぐるりと、彼女の視界が───反転した。
「な……なに……これ……!」
今、彼女の視界には、上に崩壊した街が存在し、下に夜空があるという、通常とは真逆の光景が広がっていた。
そして、逆さまになったその世界の中で、正面に立つ彼の頭もまた当然のように下を向いており、その意味不明な状況に彼女の思考が停止する。
そんな呆然とする彼女を見ていたアストは、手を合わせたまま、微かに驚いたような表情を浮かべた後、ゆっくりと口角を吊り上げた。
「ものは試しとやってみたが……なるほどな。そういうことか……」
「な、なに……をッ……私になにをしたのッ!!」
「やっと理解出来たよ。やっぱりあんた……この世界にいたんだな」
質問には答えず、アストは満足そうに頷くと、彼女に背を向けた。
「ッ! な、なんの……つもり……?」
「気づいてないようだが……こっちからは全て見えている。もうあんたに勝ち目はない。そして、俺の考えが正しければ……あんたはここから逃げ出すことすら出来ない」
「に、逃げる……私がッ!?」
「もうあんたは脅威じゃないし、後回しにさせてもらうわ。そこで大人しくしててくれ。後でゆっくり……殺してやるよ」
「こ、このッ……!」
彼女は即座に、その背中に右手を向け、魔力を練り上げた。
「ふ、ふざけたことばかりッ……!」
「一応忠告しとくが……やめといた方がいいぞ。あんたは今、全てが狂っている」
「な……にをッ……!」
いまだ事態を飲み込み切れず、彼女は困惑しながらも、震える右手をもう片方の手で必死に押さえ、アストに狙いを定めたまま自分の状態を把握し始めた。
当然、まず確認したのは境界魔法。
何をされたのかは不明のままであったが、しかし解除された感覚もなく、確かに魔法が健在であることを彼女は確認する。
「わ、私はまだ……!」
つまり、自分はいまだ無敵の存在であり、手足も動き、魔力も、術式の構築にも問題はなく、異常があるのは視界だけで、魔法を完全に破られた訳ではないのだと、彼女はそう結論づけた。
そしてすぐに、"なら、殺さなければ"と、彼女はそう思い、その右手に魔力を込め、いつも通りに───
「………………え?」
「あー……だから言ったのに」
魔術を行使した刹那、弾け飛んだ己の右腕が、いったん夜空に落ちたあと、今度は街へと上がっていくのが見えた彼女は、訳の分からぬまま、ただ呆然と消えた右腕の先を眺めていた。
そして───
「……いッ…………あぁぁあぁぁぁあぁッ!?」
遅れてやってきた激痛に、彼女は空に浮かんだままうずくまる。
しゃがみ込み、右腕を押さえ、涙を流しながら、それでも彼女は顔を上げた。
「お、お前ぇッ……!」
その言葉を受け、彼は振り返り、また笑みを浮かべた。
「……いいね。その方がいい。やっとあんたと……向き合えた気がするよ」
「ぎッ……いぃ……あ、あり得ないッ……だって魔法……ある……あるのにッ……おかしいじゃないッ!! お前ッ……わ、わた……わたしにッ……なにをじだぁッ!!」
「おいおい……言う訳ないだろ? そんなことより……ほら、まだ左腕が残ってるんだ……撃てよ」
そう言って、アストは両手を広げて見せる。
「う……うぅッ……!」
たった今、右腕が意味も分からないままに吹き飛んだのだ。
撃てる筈などない。
それを分かって言われているということが、彼女にとっては何よりも惨めで、屈辱的で、噛み締めた唇から鮮血が流れ上がった。
「どうした? 今なら避けないでいてやるよ……さっさと撃て」
「う……あぁぁあッ!」
度重なる挑発を受け、ヘンリエッタは凄まじい形相で左手を構える。
だが───
「撃てないよ……あんたには」
「ぐッ……くぅぅッ……!」
痛みと怒りと悔しさで溢れた涙が、額を伝って街へと吸い込まれていった。
「なん……なのよ……!」
ヘンリエッタは、その全ての矛盾に耐え切れず、アストへと向けていたその左手で、自身の額を押さえながら下を向く。
そうして、満点の星空が広がるその視界の中に、アストがスッと入り込んだ。
「ひっ……」
思わず顔を上げた彼女は、空中にいるにもかかわらず、尻を地面に擦るように後退り、怯えた表情を浮かべる。
そんな彼女に、見下すような、それでいて憐れむような、ひどく冷たい視線をアストは向けた。
そして───
「魔法を解け……ヘンリエッタ」
「……え?」
「そうすれば、楽に死なせてやるよ」
アストはそう、冷たく言い放つ。
だが、この時ヘンリエッタは、死の恐怖よりも確かな、とある違和感を感じ、必死に思考を巡らせた。
そうして、やがて一つの結論に至った彼女は、そのぐしゃぐしゃになった顔で───
「あはっ……なぁんだ……そういうことなのねぇ?」
と、満面の笑みを浮かべた。
その時、アストの眉間に、微かに皺が寄る。
「そう……そうよねぇ……あなた、本当に演技がお上手だわぁ……危うく、騙されるところだったもの」
「……」
アストは黙ったまま、微かに首を傾けながら、右のこめかみを指で掻いた。
世界は逆さまのままであったが、彼女はそんな彼を見つめながらほくそ笑む。
「結局、なんなのかは分からないけれど、あなたは境界魔法の隙を突き、この私をここまで追い詰めることは出来た……でも───」
ヘンリエッタは涙を拭いながら、ゆっくりと身体を起こしていく。
アストは、ただ黙ってそれを見つめていた。




