第96話:無数
刹那、引き抜かれた黒刃が、目に見えない空間の歪みを断ち切る。
「もうっ……その剣ほんと厄介ねっ!」
ヘンリエッタが放った空間魔術を引き裂いたアストは、即座に刀を収め、そのまま背後にいたケルベロスに隠遁魔術をかけると、浮遊魔術を使い空へと上がった。
「またそれぇ? ちょっと芸がないんじゃなぁい?」
苦笑しながら、彼女が薙ぎ払うように振ったその手の動きに合わせ、今度はアストの正面に、見えない巨大な空間の壁が生み出される。
「あんたに言われたくはないなッ……」
再び抜刀し、それを両断したのも束の間、ヘンリエッタの手のひらが胸の前でパチンと音を立てて合わさると、硬化した空間がアストを挟むように左右から迫った。
「ちッ……」
素早く納刀した彼は、後方へと瞬時に移動。
その直後、彼の目の前にある何もない空間から"ギチリ"と、異様な音が鳴り響いた。
「挟まれたら……死んでたな」
ぼそりと呟きながら、アストはさらに距離をとる。
「ふーん……なるほどね。ちょっと、分かってきたかも……」
大きく距離をとったアストを見つめながら、ヘンリエッタは上唇をぺろりと舐めた。
「じゃ、次いくわよぉ?」
「ッ!」
アストは自身の目を、感覚強化によって強化している。
極限まで鍛え上げられたそれは、望遠鏡を凌駕する遠見能力に加え、夜目の獲得や、動体視力の強化など、視力に関するありとあらゆる能力を底上げしているのだが、その中でもとりわけ有用な能力が、通常目に見えない魔力を視覚的に捉える力であった。
彼はその力により、ヘンリエッタの魔力の流れを見ることで、魔術すらをも断ち切る妖刀でそれに対処していたのである。
だが、妖刀の能力使用には、とある条件があった。
「これなら……どうかしらぁ?」
大きく両手を広げた彼女の背後に、無数の棘のようなものを見たアストは、彼女からさらに距離をとる為に高速で飛翔し始めた。
「ふふっ……やぁっぱりそうなのねぇ!? 逃がさないわよぉ!」
彼女が両手を前に突き出すのに合わせ、空間を固めて形成した、百を優に超える無数の見えない槍が進軍を開始する。
「ッ! 速い……!」
ヘンリエッタとの距離は約五百メートル。
しかし、放たれた空間の槍は、僅か一秒程でアストのすぐ近くまで迫っていた。
空間の槍は空気そのもの。
故に、通常発生する筈の摩擦抵抗を一切無視し、音速に近い速度を生み出す。
「くッ……!」
強化した動体視力により、迫るそれを回避しながら、アストは高度を下げると、元皇都の街を縫うように飛び始める。
「ふふっ……無駄よぉ?」
「ッ! まさか……!」
しかし、空間の槍はまるで意思を持つかの如く、建物への接触を回避しながら、飛び回るアストを追ってきていた。
「そ……どこまでも追うわよぉ? この空間は全て私の支配下にある……ちなみに、防ごうだなんて考えないことねぇ。当たった瞬間それは……ま、聞こえないわね」
彼がちらりとヘンリエッタへ視線を向けると、十本の指が忙しなく動いているのが見えた。
「操作してやがるのかッ……だが、多少速度は落ち───うッ!?」
追ってくるものとは別、凄まじい速さで降り注ぐ見えない槍が、街の建物を次々と粉砕していく。
誇張なく雨のように降り注ぐそれに、アストの眉間に皺が寄った。
「ちッ…………さすがに無理だな」
なんとかかわし続けるアストであったが、このままでは持たないと、彼は一気に上昇を開始。
そうして、追ってくる空間の槍と、ヘンリエッタから一直線に飛来するその双方を全て視界に収めると、彼は残り少ない魔力を使用しながら、左手を前に突き出し、それに右手を添えて口を開いた。
「"万物を防ぐ情愛"ッ……!」
直後、元皇都の上空に、破裂音とも、爆発音ともつかない異様な音が鳴り響き、それが幾重にも重なるように連続して巻き起こった。
「はい……おしまい」
微笑みを浮かべるヘンリエッタの目に、直撃を受け続けるアストの姿が小さく映っていた。
それは一分以上も続き、やがてそれが収まる頃───
「…………なッ……」
ヘンリエッタの目が大きく見開かれた。
「あ、あり得ない……!」
眉を顰めながら、拳を握りしめるヘンリエッタの視線の先、アストは左手を前に突き出したまま、その鋭い目を彼女へと向けていた。
「ど、どうやって……結界術!? いやっ……あ、あれを防ぎ切るなんてそんなっ……そんな魔術……!」
ヘンリエッタの放った魔術は、一発一発が必殺の一撃。
空間を固めた槍は、それ即ち圧縮された空間そのものであり、当たった直後に固定は解除され、周囲に凄まじい衝撃波を放つ。
その威力は、並の兵士であれば、一発当たっただけで跡形もなく消え去る程であった。
「あ、あの子……」
さらに、今アストが防ぎ切ったそれは、先刻街を吹き飛ばしたものとサイズは違えど、物量と威力で言えばそれ以上であり、到底防げる筈はないと、彼女はそう考えていたのだが───
「ほんとに……何者なの?」
今日、ヘンリエッタは同じ地平に立つ実力者───要するに、初めて"敵"というものを知った。
ちなみに、彼女に戦闘経験がない訳ではない。
先のペルシア大戦でも、まだ二十歳になったばかりの彼女は、バルバロスの指示のもと、末期ではあったが戦場へと駆り出され、それこそ数えきれない程の命を奪っている。
その中には、ペルシア軍でも名の知れた英雄たちも多く含まれていた。
だが、この時ペルシア最後の魔法使いはオーガスによって既に討たれており、彼女にとって敵となり得る存在は皆無だったのである。




