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第91話:そちら側

 

 アストの目が、訝しげに鋭さを増す。

 それを見たヘンリエッタは、より一層嬉しそうに笑ってみせた。


「うんうんっ! 意味が分からないわよねぇ? でも、それが答えなのよ。そうねぇ……分かりやすく言うならぁ……あなた、本は好き?」


 意味の分からない質問に、アストの眉間に皺が寄る。


「あ、答えられなかったわねぇ……じゃ、勝手に語るわ。私は本が大好き。特に好きなのは創作ものね。冒険譚だったり、恋愛小説だったり……誰かが作ったお話を読むのが大好きなの」


 ニコニコと笑いながら手を合わせ、彼女は語り続ける。


「軍に入って一番良かったことは、研究がたくさん出来たこともそうなのだけれど、それと同じくらい、たくさん本が読めたことね。すぅごいわよぉ? 帝都の図書館! もう何十万冊って数がズラーっと並んでてねぇ……で、いつものように気になった本を読んでいたのだけれど、それがとぉっても面白くて……あ、ストーリーはよくある勧善懲悪ものって感じね。ただ、よく出来てたのよそれが」


 アストはその間も、なんとか脱出する方法はないかと思考を巡らせ続けていた。

 だが、指先一つ動かせず、ただ楽しそうに話を続けるヘンリエッタを見ることしか出来ない。


「でねっ!? 主人公たちがピンチになっちゃって……もう凄い数の敵に囲まれちゃうシーンがあったのよ! その時ふと思ったの……ほら、私たちって強いじゃない? だから、もしその小説の物語の中に入れたらって……私なら、何万人いようが殺せちゃうから、それで颯爽と主人公たちを助けちゃったりとか……そんな妄想を、あなたもしたことない?」


 彼女の目が、だんだんとアストを見下すものへと変化していく。


「でも、それはあくまで妄想のまま……その場面だけで終わるの。だって、私が入り込むことで、その先の物語が大きく変わっちゃうでしょ? でも、実際に書いてある続きに私はいない。小説っていうものは結局、書き手の思うがままに進んでいく……登場人物たちの人生は、書き手が頭の中で描いたものに過ぎない。つまり、何をするのも思うがまま、人を生かすも殺すも自由自在……まさに神ね。そして、登場人物たちは、その神に何をされようが抵抗出来ない。いいえ……抵抗するという意思すら持てない、と言った方が正しいわね。だって、そんな存在がいることを、登場人物たちは認識すらしていないのだから。そう考えた時、私は無性に……腹が立ったわ」


 首を傾げた彼女から、フッと笑顔が消える。


「だってそうでしょぉ? もしかしたら、この私たちが生きる世界にも同じような存在がいて、こうやって話していることも全てそ(・)い(・)つ(・)に言わされてるとしたら……何もかもそいつの思い通りに事が進んでいて、全ての経過は予定調和に過ぎず、ただの進行上の都合だとしたら……って、そう思っちゃったのよ」


 早口で捲し立てるように、彼女はさらに言葉を続けていく。


「だから、私はそ(・)ち(・)ら(・)側(・)へ行くことにしたの……あっ! もちろんこの世界全部を私の思い通りにしたいだとか、そこまで傲慢な考えじゃないのよぉ!? ただちょっと……空間を一つ超えた先で、誰にも触れ得ないその場所から、こちら側の世界に干渉出来たら、それってもう物語の紡ぎ手側と言えるんじゃないかなってそう……思いついちゃったのよ」


 彼女の口角が吊り上がるのを見て、アストは遂に理解する。

 その、恐るべき魔法の力を。


「……理解したようね。そう、私の魔法の名は……"境界魔法"。私は今、この世界に在って、この世界にいない存在となったのよ」


 境界。

 境目の世界。


 彼女の生み出したそれは、登場人物の世界から抜け出し、物語の紡ぎ手側へ回るという、まさに世界の理(ことわり)から逸脱する為の力であった。


「あなたたちのいる世界から、私に干渉することは決して出来ない。それは、さっき分かったでしょう?」


 刀がすり抜けた感覚が、いまだアストの手には残っていた。


 それでいて、自身は空間を固められ、身動き一つ出来ずにいる。


 つまり、それが意味するところは───


「対して、私からは自由に干渉出来る……ふふっ! 言っておくけれど、これは分身体でもなければ、ちゃちな幻影でもないわよぉ……私は、私のまま、私としてここにいて、そしてここにいないの! どう!? これこそまさに、神の力と言えるんじゃないかしらぁ!?」


 攻撃を一切受けず、ただ一方的に攻撃出来る。

 しかも、それを行うのは、並の人間ではない。


 この世界における、最強の空間魔術使い。


 空間を削り、固定し、圧縮し、軽々と街を吹き飛ばす、そんな力を持つ"流転"の魔法使い、ヘンリエッタ=エルドラージュが今、無敵の存在へと昇華したのである。


 その事実が、アストの心へと、重くのしかかっていた。


「さて、と……これで戦いはおしまいね。後は、あっちこっちで暴れてるのを片付けて、さっさと帰りましょうか。んー……それにしても、最初に見た時から思ってはいたけれど……あなた、いい男よねぇ」


 ヘンリエッタは、そう言いながら動けないアストに顔を近づけると、その美しいに恍惚の表現を顔浮かべる。


「なんというか……影のある男って魅力的よねぇ。それに、とぉっても強いし、殺しちゃうのはもったいないかもぉ……うんっ! 決めた! あなたは持ち帰って、私のものにしてあげる! とりあえず、ずぅっと固めたままにして弱らせてからぁ……少しずつ、調教してあげるわねぇ?」


 目を潤ませ、微かに息を荒げる彼女に、アストは心の中で一つため息をついた後、"仕方がない"と、続けてそう呟いた。


 この状況を打破する為に、彼はまた一つ無茶をするしかないと、そう覚悟を決めたのである。


「じゃ、とりあえず異空間に閉じ込めておくから、しばらくそこで……待っててねぇ?」


 彼女の手が自身へと伸びる直前、彼は体内に残っていた魔力を全て使い───


「「ッ!?」」


 その時、突然現れた巨大な影が、二人を覆った。


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