第90話:雷鳴
アストの眼光が、一際鋭さを増すのと同時、ヘンリエッタは身体の中で、膨大な量の魔力を練り上げ始めた。
「……黙って見てると思うか?」
「止めるのは無理よぉ……あなた程度ではね」
そうして、ヘンリエッタの視界からアストが消えた瞬間、彼女もまた空間を跳躍して姿を消す。
まるで星が瞬くように、両者は空中に消えては現れ、元皇都の空を転々と移動していった。
「ちッ……」
「ふふっ! 惜しかったわねぇ!」
時折届きそうになる刃を紙一重でかわしながら、ヘンリエッタは体内に魔力を蓄積していく。
それをなんとか食い止めたいアストではあったが、彼女の転移が想像以上に早く、また隠遁魔術が通用しないことで、転移先を読むことでしか彼女に近づけない現状に、彼の心の中に微かな焦りの色が見え始めた。
「……無茶をするしかないか」
多重召喚の弊害により、アストの魔力の総量は、最大値が大幅に減少している状態にあった。
ここまでの戦闘で、身体強化魔術、錬成魔術、浮遊魔術、隠遁魔術と、彼は複数の魔術を同時に使用しており、また今召喚している悪魔たちが力を使えば使うだけ、彼の魔力は消費され続けていく。
長期戦は不利。
そして、さらにここで"魔法"という強力な一手を放たれれば、万が一の事態もあり得ると、彼は覚悟を決め、内包する魔力を全身に巡らせた。
「あら、諦めちゃったのかしら? ……って、そんな訳ないわね。それじゃ、さらなる絶望ってものを……教えてあげるわ」
アストから数百メートル程離れた場所に転移したヘンリエッタは、そう言って笑みを浮かべながら、一気に魔力を練り上げる。
そして、それに合わせ、彼女の周囲にある空間が大きく歪み始めた。
その現象を見たアストは、もはや猶予はないと判断。
深く息を吐いた後、この世界に戻ってから初めて───
「"雷鳴の権化"ッ……!」
───魔術を、詠唱した。
「うッ!?」
魔術の詠唱とは、自身の内にある世界と、外にある世界を繋ぐ線を、より明確化する為に行われる。
要するに、魔術の力を底上げする為の儀式であった。
無詠唱でも充分な力があれば必要ないのだが、アストは少ない魔力で最大限に効果を発揮出来るように、またより確実にヘンリエッタを仕留める為にと、それを選択したのである。
「ッ!? あ、あれはッ……!」
アストの身体が青く発光する様を見て、ヘンリエッタは瞬時にそれが何かを察していた。
"雷鳴の権化"。
それは、己の身体そのものを雷に変化させ、文字通り雷速で移動することを可能にするという、雷系魔術において、上位に位置する高等魔術である。
「……ッ!」
アストは痛みを感じない。
だが、確かに感じた身体の異変に、彼の表情が険しさを増す。
ヘンリエッタに追いつく為に使用したそれは、今の彼には過ぎたる力。
限界を超えた魔術の行使は、確実に術者の身体を蝕んでいく。
「まずいッ……!」
対するヘンリエッタの表情からもまた、笑顔が消えかけ、そのうなじに"ざわり"と悪寒が走る。
もさや一刻の猶予もないと、彼女は即座に、己がそう呼ばれる所以を発動───
「……が……あッ!?」
───しようとした、まさにその刹那。
月と星々が彩りを見せる夜空の中に、聞こえる筈のない雷鳴が轟く。
そして、それが鳴り響くよりも速く、雷へと身体を変質させたアストの黒刃が、ヘンリエッタの腹部を貫いていた。
「ごふッ……」
「ちッ!」
限界を超えたが故に起きた異変。
それが、僅かに彼の手元を狂わせた。
刃を天に向け、切先を前へと突き出し、雷速で一直線に身体ごと突進したアストであったが、貫くつもりであった心臓から下腹部へと、狙いは逸れていた。
アストはその極小の時の中で、ヘンリエッタの顔を下から覗き込むように見上げる。
そこに、鮮血を吐き出しながら、妖艶な笑みを浮かべる彼女がいた。
「ッ!」
確実に止めを刺す為、アストは突き刺した刃をそのまま上へと押し上げ、彼女の身体を両断しようと───
「……なッ!?」
それは、あり得ないことだった。
アストの眼前には、腹部から血を流すヘンリエッタが間違いなくおり、その息遣いすらも聞こえていた。
だが、身体を引き裂く為に押し上げ、振り抜いたその刀は、まるで空を斬ったような手ごたえだけを残し、虚しく彼女の身体をすり抜けていたのである。
「……本当に、紙一重だったわぁ」
「ッ!?」
アストは動けなかった。
刀を下から上へと振り抜いたその格好のまま、空間を固定されて。
「ごほッ……まったく……二度も身体を傷つけられるだなんて……初めての経験よ。しかも、二回ともこんなにふかぁく……んっ……」
ヘンリエッタは下腹部に手を添えると、その首の傷と同じように、穴が空いた部分の空間を固定した。
「……ま、ひとまずこれでいいでしょう。あくまでも応急処置だけれどね。さて、そんなことより、どうやら決着がついたようね……軍人殺しさん?」
勝ち誇った笑みを浮かべるヘンリエッタに、アストは返事すら出来ず、ただ睨みつけることしか出来なかった。
「ふふっ……こわぁい。でも、もう無理よ。ここからの逆転はあり得ないの。これは油断とかそんなものではなく、厳然たる事実よ。そうね……せっかくだし教えてあげる。あなたの刃が私をすり抜けた理由……それはね? 私がもう……この世界にいないからよ」




