第88話:その次
別に、軍に入りたくないからという訳ではない。
ヘンリエッタは、ただその状況に酔いしれていたのだ。
偉そうな大人たちが、まだ子供である自分に対し、力を貸してくれと、お願いしますと、必死になって頭を下げる。
その姿を見る度に、彼女は得も言われぬ快感に包まれ、口元が勝手に緩んでいった。
その時点で、まるで世界が自分に跪いているような、そんな優越感に彼女は支配されていたのだ。
だが、そんなことが続けば、それがこの世の常識であると、才能こそが全てだと、彼女がそう思ってしまうのも無理はない。
やがてその張りついた笑み消えなくなり、また一民間人として行う魔術の研鑽に、ヘンリエッタが微かな限界を感じ始めた頃、彼女の家にいつもとは違う軍の人間が訪ねてくる。
"また来たのね"と思いながら彼女が扉を開けると、そこにはやたらガタイのいい、一際偉そうな男が一人で立っていた。
彼は自分のことをバルバロスと、そう名乗った。
周りからすれば、どういったやり取りがあったのかは不明のままで、結局のところそれは二人だけの秘密であったが、ともかく彼女は軍に入ることを了承し、そのままバルバロスの下につくこととなる。
ヘンリエッタは彼の庇護の下、空間魔術の研究という名目で、ありとあらゆる実験を行う。
その中には、バルバロスの力があってこそ可能である、いわゆる人道に反したものも多く含まれていた。
個人で行えることに限界を感じていた彼女にとって、それはまさに渡りに船であり、これによって彼女の空間魔術はついに世界の理を捉え、その枠組みから逸脱することに成功する。
そうして、ヘンリエッタは他者から"魔法使い"と、そう呼ばれる存在になった。
また、これによって彼女が持つその利己的な思考は加速度的に増長し、自分以外のありとあらゆる存在は、全て下等なものであり、自分に使われることで初めて意味を為すのだと、無自覚にそう結論付けることとなる。
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「ふふっ……何かを求めるって、こういう気持ちなのねぇ……教えてくれてありがとう」
彼女は、望めば全てが手に入る人生を送ってきた。
美しい容姿を持ち、優れた頭脳を有し、稀有な才能を保持し、魔法使いという、人類史に名を残す存在にまで至った。
挫折もなく、後悔もせず、省みる必要もなく、ただ思うがままに、己の為ならば人の命すら、なんの感傷もなく奪ってきた。
死ねと思えば相手が死ぬ。
彼女の使う力とは、まさにそういったものであったから。
だが、今宵初めて、そうはならない者が目の前に現れたのだ。
それは、ヘンリエッタにとっての初体験。
故に、彼女は今───
「私ねぇ……今初めて……本気でッ……あなたを殺したいッ……!」
初めて嘲りを知り、怒りを知り、そして同じ地平に立つ"敵"を知った彼女は、薄ら笑いをやめ、狂気に満ちた笑顔でそう叫んだ。
アストはその狂気と殺気を正面から受け、それでも尚、涼やかな笑みを浮かべながら口を開いた。
「危惧だな……俺も、あんたらから学んだんだぜ? 殺したいほど……人を憎むってことをな」
直後、示し合わせたかのように、両者が魔力をたぎらせるのと同時、ケルベロスが大地を蹴った。
固く舗装された地面を粉々に砕きながら飛び上がった彼女は、そのまま三つの口を大きく広げ、凄まじい勢いでヘンリエッタへと迫る。
「おバカさんねぇ……あなたにこれは防げないでしょうにッ!」
再び発動する空間固定。
だが、身体が動かなくなるその刹那、ケルベロスはその巨大な口で、大きく大きく息を吸い込んだ。
そして───
「「「ワォォォォォォォオンッ!!!」」」
「ぐッ!?」
その巨大な咆哮に、思わず耳を塞いだヘンリエッタは、またしても驚愕する。
止まることなく、彼女へと向かって空中を蹴りながら猛進する、ケルベロスのその姿に。
「なッ!? ちッ……!」
舌を打つ音だけを残し、ヘンリエッタは空間を跳躍。
対象を見失ったケルベロスの攻撃が空振りするのを遠く上空から眺めながら、その眉間に皺を寄せた。
「い、いったいどういうことなの……なんでわんこちゃんにまで私の魔術が……!」
焦燥と困惑に、彼女の笑顔が消えかける。
しかし、そこでまたフッと、張りついた笑顔が表に出た。
「……いいわ。効かないなら別にすればいい。そうよ……私はなんでも出来るの……だって、魔法使いなんだからッ……!」
崩れかけた絶対的な自信を、そう唱えることで呼び覚ました彼女は、すぐさまアストの魔力を探り始めた。
「あの子、魔力を消して……いえ、でもあれだけの魔力をそんな簡単に消せる訳が……まさか……そういうこと?」
ここで何かに気づいたヘンリエッタは、途端に冷静さを取り戻し、だんだんとその表情が、いつもの様子へと変わっていった。
「なるほどね……やるじゃない。けど、そうでなくっちゃねぇ……つまり、さっき魔力を昂らせたのはフェイクってこと……ふふっ! そう……これが、"戦い"なのねぇ?」
嬉しそうに笑いながら、彼女は眼下に広がる元皇都の街並みに目を凝らす。
しかし、やはりアストの姿はどこにも見当たらなかった。
「魔力も姿も見えない……か。まぁ、そうでしょうね……いいわ。だったら、そう出来ないようにしてあげるッ!」
そう言った彼女は、魔力を練り上げながら両手を天にかざした。
「さぁ、講義の続きをしましょう。転移、断裂、固定は教えたわねぇ? そして、これがその次ッ……!」
「「「グルッ……!」」」
空を見上げていたケルベロスが、その時何かを察知し、一目散に城へと向けて走り出した。
「ッ! ほんとに頭のいい子ッ……けどッ! 間に合うかしらぁッ!? はぁぁあッ!!」
そうして彼女が両手を振り下ろした次の瞬間、轟音とともに元皇都が激しく揺れた。




